« 青梅の観音へ参る(4) | トップページ | 青梅の観音へ参る(6) »

2015年1月 8日 (木)

青梅の観音へ参る(5)

B15010701

千手観音立像の光背裏に、永正九年(1512)三田弾正忠氏宗、

(だんじょうのちゅう・うじむね)と云う者が、鎌倉の仏師・弘円に、

修理させたと記されている。この三田某なる一族、実は大変な力を、

持っていたようなのだ。吾妻鏡などの記録に、鎌倉中期から、

三田姓名乗る者が散見出来、おそらく、その頃までには、

当地の領主に納まっていたと考えられる。

現在の青梅市と多摩川上流の渓谷一帯は、

「杣保」(そまのほ=ほう :古代律令制の行政単位。

   中世では荘・郷・名と並ぶ、別立ての所領の呼称、

   あるいは、京鎌倉などの都市の最小行政単位を指す。

   謂うまでもなく、杣とは木材を産する山林のことだ)

と呼ばれ、平安後期には、武蔵国府より公認されていたであろう。

公領(国衙領)であったか、私領であったかは判らないが、

現地の主だった者が「保司」(ほうじ=ほうのつかさ)と云う、

監督者となった。三田一族は、代々「保司」を務めたのであろうか。

とすれば、平安中期以前、古代へ遡る可能性も捨てきれない。

彼らは何と「平将門の後裔」を自称して(市内の寺の梵鐘銘に記す)

憚らなかった。確かに、青梅地方は将門伝説が多いのだが。

B15010702

「杣保」は南関東周辺の寺社建築用資材の主要な供給地であり、

「保司」の地位は莫大な収入を齎したはずである。

木材を切り出す杣人製材に携わる番匠、

木材を流した多摩川の筏師、川並衆、

木製品を削る木地師漆を採る塗師

膨大な人数の職人たちを束ねて居たのではないか。

B15010703

一方で、三田一族は鎌倉御家人の地位を保ち、

室町期に入ると、鎌倉公方、関東管領上杉氏の有力家臣となって、

此処、奥多摩渓谷の入り口に舘を構え、蟠踞し続けた。

財力も、溜りに溜まって往ったに違いない。

そして、戦国期へ至るわけだ。

(捨身 Canon G1X)

|

« 青梅の観音へ参る(4) | トップページ | 青梅の観音へ参る(6) »

民俗」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 青梅の観音へ参る(4) | トップページ | 青梅の観音へ参る(6) »