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2015年1月の記事

2015年1月31日 (土)

青梅の観音へ参る(27)

B15013001

青梅宿には、往時を偲ぶ古民家が多い。
宿の「町年寄」を務めていた「稲葉家住宅」だ。
江戸後期の商家で、やはり「杣」の材木と、
特産の織物「青梅縞」を商っていた。
公開されているので、内部を観ることが出来る。
B15013003
現在も、稲葉家の方々は、宿北側の山裾にお住まいだそうだ。
B15013002
「裏宿の七兵衛」のイメージを続けよう。
伝承では「義賊」であったと云われる。
宿で困窮する賤視された人々のもとに、そっと金品を置いていく。
でも、恐らくは、そうあって欲しいと願う、宿の人々が、
「鼠小僧」の物語に肖ったものであろう。
実際の七兵衛は、何人かの与党の者と一緒に、
捕縛されたと記される。
あるいは、中世的な「党」を結ぶ「賊」と謂えなくもない。
一晩に十数里(40キロ以上)走り、戻ったと云う健脚は、
山伏が使った、「早駆け」の術を想起させよう。
(流行りの山岳トレイルに近いものだろうか)
青梅の「杣」を飛ぶが如く駆け抜けた、
「山人」の血を受け継ぐ者たちにとっては、
造作無い「技」ではなかったか。
道も、既に中世世界から整っていたはずで、
もとより、青梅宿のアクセスは悪くない。
甲府、八王子、立川、相模まで…いずれも「表街道」は使わず、
勝手知ったる山中の「杣道」を辿るから、
近道となり、捕吏の手も容易には届かなかったわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月30日 (金)

青梅の観音へ参る(26)

B15012903

近世青梅宿の中を歩行しながら「裏宿の七兵衛」の、
物語について、想いを廻らしてみる。
伝承では「百姓七兵衛」と呼び、農民となっているが、
筆者はそう採らない。
通常、百姓身分なら、姓を持つ。
つまり、彼は姓を持たない身分だったと考えるのだ。
では、百姓に召し使われる下人所従、あるいは、
使用人、小作人だったのか。否、そうではないだろう。
七兵衛は青梅宿の西外れに、屋敷を構え、
宿内に、何か所も田畑を持っていたと云うから、
極貧どころか、富裕であった可能性がある。
もとより生業も、農民だけではなかったはずだ。
やはり、山の仕事、中世世界以来の、
「杣」(そま)に関っていたのではないか。
どうも「盗賊」とは、結び付き難いイメージが浮かぶ。
「裏宿」と云う字名にも惹かれる。
「裏」とは「宿の奥」の意味だとする説があるようだけれど、
これもしっくりこない。筆者は「宿の外の宿」と取りたいのだが。
とまぁ、今宵はこのくらいにしておこう。
週末とあって、何人ものランナーに往き合う。
今年の「青梅マラソン」は来月十五日だそうだ。
B15012901
立派な米屋さんの前を過ぎる。
蔵が付き、なかなかの風情だ。
B15012902
お茶も扱っているようだ。
青梅は「狭山茶」の産地に隣接しており、茶畑が目立つ。
当地では、自家用に栽培する家が多いと聞いた。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月29日 (木)

青梅の観音へ参る(25)

B15012801

住吉社前を過ぎると、街道沿いは賑わいが出てくる。
昭和の商店街の風情だ。
住吉社頭は、近世青梅宿の中心であったようだ。
「笹ノ門」(ささのもん)とも呼ばれたから、
直前の「筋替」が終わった辺りに、
青竹で「竹矢来」(たけやらい)が組まれ、
「木戸」が設置されていたのかもしれぬ。
高札場も在り、時には、滅多なことではなかったろうが、
梟首(きょうしゅ=さらしくび)が行われたらしい。
元文四年(1739)十月、青梅宿の西外れに棲む、
「裏宿の七兵衛」と云う者が、盗賊の咎で首を晒された。
彼は日が暮れると、立川、八王子、秩父、甲府に至るまで、
遠征して盗みを働き、翌朝には戻って、
何食わぬ顔で畑仕事をこなすほどの健脚だったと伝わる。
もうすぐ開催される「青梅マラソン」にも因み、
七兵衛は今も、青梅の一寸したヒーローになっている。
実は、この物語を聞いて、筆者には、
別のイメージが広がって来るのを抑えられなかった。
追々と語って往こう。
B15012802
さて、宿の南側も観たくなったので、緩やかな坂道を下り、
多摩川べりまで歩いてみた。
郷土博物館も橋を渡ったところにある。
B15012803
宿の深部に分け入ったと実感するような、
町屋と彼方此方で出会した。
B15012804
冬の日差しに輝く多摩川。
往時は、木材を流す筏で溢れていたのだろうか。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月28日 (水)

青梅の観音へ参る(24)

B15012701

「筋替」は、近世青梅宿の結界を示すものであろう。
これで、宿の中に入ったわけだが、右手に直ぐ、
大きな石鳥居が観えて来る。「住吉神社」だ。
参道と石段が、小高い独立した小丘上へ続いている。
もとより住吉社は、航海の神であると同時に「市の神」である。
実際、江戸期まで、青梅宿では「六斎市」(月六回開催)
が開かれていた。市を奉行した「宿名主」に、
三田一族の主だった家臣の名が挙がっているから、
市庭が、中世世界に起源を持つことは疑えない。
問題は、その在処だが、江戸期は住吉社境内から、
青梅街道に沿って、西側であったと想定出来るだろう。
住吉社は、応安二年(1369)宿内に臨済宗の寺を開いた、
禅僧が、鎮守として勧請したのが始まりと云われ、
位置も、当初より移動していないと想われる。
とすれば、中世の宿と市は、住吉社を西端として、
時宗・乗願寺辺りを東端とする間に在ったのでないかと、
推定しても、いいかもしれぬ。
住吉社へ登ってみるとしよう。
B15012704
青梅宿を見渡せる、絶好の「勝地」なのがよく判る。
この小丘は、廻りの山々とは関係なく、多摩川沿いの渓谷内に、
些か唐突にせり上がって観える(後背の窪地をJR青梅線が走る)
何らかの、古代遺跡の可能性も捨て切れまい。
B15012702
社殿もなかなか立派だ。
本殿は正徳六年(1716)拝殿は文政年間(1804~30)の建立とある。
B15012703
祭礼の五月二日と三日には、十二台の山車巡行(宿内十二町か)
が行われるそうだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月27日 (火)

青梅の観音へ参る(23)

B15012601

近世青梅街道に沿って、「西分社」の参道前を過ぎる。
この辺りの字名は、西分町(にしわけ)と呼ぶが、
戦後、地名の訓読が「指導」されたせいで、そうなったようだ。
本来は「にしぶん」であった。
隣の勝沼の「西半分」だったことに由来すると云い、
こっちのほうが、全く筋が通るのだ。
つまり、中世までに、何らかの事情で勝沼領は、
「下地中分」によって「西分」と「東分」に分割された、
可能性がある(現状の勝沼は「東分」だったのか)
このように、地名には、その土地の掛け替えのない歴史が、
刻まれていることが実に多い。
現代の感覚に頼った、安易な地名変更に、
筆者が賛成出来ない由縁である。
B15012505
そうか、中世世界では、此処までが、三田一族の勝沼舘と、
乗願寺(山号は勝沼山)の膝元だったわけだから、
中世の「宿」と「市庭」の境域に含まれていたかもしれぬ。
でも、近世の青梅街道と、中世の道筋が一致したかどうか、
判らないので、推定は急ぐまい。
典型的な町屋造りの古民家前を通る。
雨戸が閉まったままで、人気は無いが、
明らかに、シャッター街よりは風情がある。
B15012602
寺の多い町(青梅は六十を超える)は和菓子屋が多いと云う、
経験則?に、まぁ、当地も当て嵌りそうだ。
B15012603
おっと、前方に「見付」否、「筋替」らしき、クランクを発見した。
地図上ではハッキリしてなくても、現地に立てば、
一目瞭然のケースだろう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月26日 (月)

青梅の観音へ参る(22)

B15012501

近世の青梅宿の辺りを示した概念図を掲げた。
前々回で示した勝沼城周辺図の直ぐ左側へ繋がる。
旧青梅街道とは、近世の青梅街道のこと。
現状は二車線の舗装道路だが、
ほぼ、かつての道筋と重なっているようだ。
もとより眼目は、中世の宿と市庭の在処を求めて、
彷徨うことなんだけれど、まずは手掛かりとして、
近世の青梅宿を、探索してみようか。
でも、何か縁となる痕跡を見つけたら、折に触れて、
中世世界へ想いを馳せると謂うわけだ。
因みに現在位置は、上図で旧青梅街の右端(東端)になる。
B15012502
角を曲がって、旧青梅街道へ入ろうとしたら、
往き成り、こんな看板が目に留まった。
鍛冶は、宿に無くてはならぬ存在だ。
近隣の杣人、農人、市庭に出入りする職人たちの、
命の綱である道具類を製し、メンテを引き受ける。
謂わば基盤産業だった。
鍛冶の仕事場は、宿の外れに位置することが多いから、
此処はまだ、宿の結界の外だろうか。
B15012504
旧青梅街道を西へ進む。
もう一寸往けば、結界を示す、
何らかの痕跡が見つかるかもしれない。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月25日 (日)

青梅の観音へ参る(21)

B15012202

乗願寺へ戻ろう。
興味深い遺物が伝わっていた。
三田一族、最後の当主、綱秀所用の兜前立て(金色の扇)と、
旗指物(同じく、扇と左三つ巴紋を上下にあしらう)だ。
青梅市郷土博物館の学芸員の方へ聞いたところ、
時代的に符合するので、ほぼ実物だろうとのことだった。
筆者にも、合点の往くことがあった。
抑々、この寺の時衆は、大事な役目を負っていた。
出陣の際、軍勢に付き従い、戦傷者の治療看護や、
戦死者の収容、埋葬供養を行う。
そして、当主が、いよいよ最後の時は、
十念(南無阿弥陀仏を十回)唱えさせ、
極楽への引導を渡し、往生を見届ける。
葬送はもとより、遺族へ首や遺品を届け、
最後の様子を、事細かに語り伝えるのだった。
彼らを「陣僧」と呼ぶ。鎌倉末から南北朝期頃(太平記に初出)
に始まり、室町、戦国期には、武士たちの間で、
一般化した、謂わば合戦の「作法」であった。
乗願寺の時衆は、綱秀の最後(永禄四~六年 =1561~63 
自害と云々)に立ち会い、彼との生前の約束を違えず、
すべてを実行したのであろう。
後には、上述の如く、遺品が託されたが、
渡すべき一族の人々も滅び、当寺に残ることになったわけだ。
(三田一族最後の戦いについては、後述しよう)
B15012203
境内には、一寸した楠の古木がある。
塩船観音寺もそうだが、青梅には楠の巨木が目立つようだ。
気候的には山間地で、厳しいはずだが、
南関東の沿岸地域と同様、「熊野海民」の足跡を、
感じてしまうのは、筆者だけであろうか。
大楠の陰から、近世青梅宿の辺りを覘く。
乗願寺には「陣僧」の他にも、重要な仕事があったと想う。
それは、富士吉田の御師宿のような、宿の管理ではなかったか。
B15012206
乗願寺前の踏切を超えて、「宿」へ入って観たくなった。
そう云えば、「踏み切り」もまた、
立派な異界への入り口であることよ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月23日 (金)

青梅の観音へ参る(20)

B15012204

一寸、話が込み入ってきた観が無きにしもあらずなので、
参考地図などを掲げて、閑話休題としたい。
まず、JR青梅駅と近世青梅宿を中心とした広域図を示す。
山地と平野が色分けされているから判り易いと思う。
奥多摩の渓谷を流れ下る多摩川(左上から右下へ)が、
いよいよ、武蔵の平野部へ出る辺りだ。
右上中程から平野と山地の境に沿って、塩船観音寺、
勝沼城址と斜めに下って、真中の近世青梅宿へ至る。
重要なのは、右方中央よりくる、青梅街道が勝沼城の手前で、
(JR東青梅駅付近)右下から多摩川沿いに上がってくる道、
(現奥多摩街道だが、往古は武蔵国府・府中道か)と合流し、
直ぐに北上する成木街道と分岐することだ。
いずれも現代の要路だけれど、中世世界でもほぼ重なる、
道筋があったと想定しても、大きな不都合はないのではないか。
(鎌倉道と伝わる古道もあるらしいが、ここでは敢て触れぬ)
三つの重要な街道と多摩川が狭い渓谷の入り口に集中する。
それらを北側の南面する高見から、常時監視出来る位置が、
勝沼城なのである。
次に勝沼城周辺を拡大した概念図を掲げよう。
B15012201
勝沼城跡を廻る赤字のスポットは探索ルート上にあった。
右上の塩船観音、勝沼城跡、乗願寺と、
(師岡神社は、三田一族の落去後、師岡氏が祀る)
綺麗に一直線上に並ぶのがよく判るであろう。
残る問題は、中世の宿と市庭が在った場所だろうか。
B15012205
乗願寺前の踏切。
路地を着突き抜ければ、近世青梅街道だ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月22日 (木)

青梅の観音へ参る(19)

B15012101

乗願寺の建つ場所も、多摩川上流北岸の丘陵上で眺望がいい。
山門直下をJR青梅線が走り、小さな踏切を渡れば、旧青梅街道だ。
道なりに右へ進むと、直ぐ近世の青梅宿に入る。
実は二年前、御岳山を探索した際に、電車からこの寺を観て、
只ならぬ風情が、気になっていたのだった。
廻り道ながら、こうして往き着くとは、
「想い自ずから成る」と云うわけで、年初早々幸先が悪くない。
B15012102
加えて、青梅では数少ない時宗寺である。
鎌倉後期の正安二年(1300)三田一族の当主、下総守長綱が、
一遍の後続者、他阿真教を迎えて、開山したと伝わる。
他阿真教は、相模・当麻宿の無量光寺を開いたが、
三年前、彼の墓所を探索していたのも、重なる「縁」であろうか。
興味深いのは、時宗総本山・藤沢・清浄光寺(遊行寺)ではなく、
時宗当麻派・無量光寺の末寺になっていることだ。
鎌倉末期、法統問題の確執で、当麻宿の無量光寺から、
藤沢の遊行寺が別れる。戦国期には、藤沢は小田原北条氏と、
対立して全山焼亡、江戸期に入るまでのほぼ百年間、
当麻宿が時宗の事実上の本山であった。
この寺の現状は、中世世界の時宗の宗派事情を、
そのまま反映しているとも、謂えなくもない。
B15012103
いずれしても、乗願寺は、大檀那、三田氏の力もあり、
大いに栄えたのであろう。勝沼館の裏鬼門を阿弥陀仏で守り、
一族の人々の、極楽往生の願いを引き受けたのだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月21日 (水)

青梅の観音へ参る(18)

B15012001

青梅街道の踏切前を右へ入り、線路沿いの小径を進む。
何だか、鎌倉を彷彿とさせる風情だ。
B15012002
「勝沼公会堂」前を過ぎる。
ご覧の通り、この辺りの字名は勝沼である。
合戦の際、三田一族が「寄親」として率いた地侍たち(寄子)は、
「勝沼衆」と呼ばれていたようだ。
三田一族の領地は、もとより奥多摩渓谷の「杣」が中心だったが、
西は、多摩川中流を隔てて、北条と大石の八王子領に接し、
最盛期には、東は、入間川を超えて高麗まで届いていた。
一時、高麗郷も、領域に加えていたらしい。
石高にすれば、一万五六千、動員出来た軍勢は、
千二三百と云ったところか。
B15012003
さて、石垣に囲まれた立派な結構の寺が観えてきた。
勝沼城の南西、裏鬼門に位置する「乗願寺」だ。
既述の如く、勝沼城の北東の鬼門には、塩船観音寺があり、
試みに、三者を地図上に落としてみると、
見事に、ほぼ一直線上に並ぶのが判るのだ。
B15012004
山門へ登ろう。
この寺のことを語らねばなるまい。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月20日 (火)

青梅の観音へ参る(17)

B15011901

舘の東側を確認したく、勝沼城跡を降り、
城山通りを、もう一寸先へ進む。
丘陵突端の裏(北東)は、ご覧のような谷戸で、
谷戸奥は市営の公園になっており、水源地があるようだ。
舘にとって、大事な立地条件の一つには違いない。
筆者は、中世城館跡を探索する際は、大まかな地形はもとより、
必ず、周囲に位置する、主要な寺社、河川、古道、
古字名(宿や市庭跡の可能性がある)を把握するようにしている。
城館本体の、縄張り、本丸、大手口などの推定よりも、
(重要でないとは謂わないが)城館を頂点として、
宗教施設、河川、街道、宿、市庭によって、有機的に構成され、
完結する、中世世界の「小宇宙」と云うべき空間を、
イメージするほうが、遙かに重要だと考えるからだ。
B15011902
舘の東側には、まず、曹洞宗の禅寺、宗泉寺がある。
室町期の関東で、京都に対抗して使われた私年号、
「福徳二年」(1490)を刻んだ、珍しい板碑を所蔵しているそうだ。
三田一族との関りもあり得るだろうか。
B15011903
さて、この寺を東端として、踵を返し、
今度は、勝沼城跡の南西側を探索してみようと想う。
B15011904
成木街道を青梅街道の分岐まで戻り、JR青梅線の踏切に至る。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月19日 (月)

青梅の観音へ参る(16)

B15011801

竹藪と植林の中を登る。
彼方此方に、平場や窪地のようなところが目立つが、
何らかの城郭施設の跡だろうか。
B15011802
両側の平場が曲輪跡で、間の窪みが空堀のようだ。
B15011803
土塁状の上に、標識が立つ。
こうやって観ると、連郭式の典型的な戦国期の山城なのだが、
既述の如く、本来は、土塁空堀一重の中世居館だったと想う。
永禄四~六年(1561~63)頃か、三田一族は、当地を、
退去せざるを得ない状況に陥り、ほどなく滅亡、
その後、小田原北条氏の家臣、師岡氏が入って、
拡張整備したためと考えられる。三田時代の舘跡は、
さらに下に埋もれている可能性があるが、
本格的な発掘調査は行われていないらしい。
B15011804
ご覧のように、現状は麓の寺の墓地で占められる。
でも、この眺望で、中世居館に理想的なのがよく判る。
畑地の向こうの家並みが、現代と近世の青梅街道の辺りだ。
今辿ってきた「城山通り」は、眼前の家並みに沿う。
場所的には、中世世界の古青梅街道が通るに相応しい。
お約束通り、宿や市庭が在っても、おかしくないだろう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月18日 (日)

青梅の観音へ参る(15)

B15011701
勝沼城は、多摩川上流北岸の丘陵突端上に位置し、
奥多摩渓谷の入り口と、古青梅街道の分岐を抑えていた。
現状は、戦国期の「平山城」と分類されているようだが、
筆者は、中世の典型的な領主の舘跡とみる。
平地から立ち上がる、やや高みの斜面で南面し、
前面に、街道と集落を見下ろす形式をとるからだ。
従って、防備は、一重の空堀と土塁、櫓程度と、
さほど厳重ではなかったと想う。
三田一族は、当地を「杣保」(そまのほう)を経営する、
本拠に選び、当主の居館を構えた。
その時期は、鎌倉後期から戦国期までの、
ほぼ三百年に及ぶと考えられる。
B15011702
舘跡南面の麓に、幾つかの寺社が並んでいる。
殆どが曹洞宗の寺院で、開山も戦国期以降が多い。
その一つの妙光院だ。
本堂裏手の墓地に、勝沼城跡への登り口がある。
B15011703
さて、城跡へ続く、緩やかな坂道に取り付く。
次第に視界が開けてきた。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月17日 (土)

青梅の観音へ参る(14)

B15011601

天寧寺から、山一つ隔てた谷戸で「虎柏社」(とらかしわ)前を通る。

明治の神仏分離以前は諏訪社だった。

天慶三年(940)清和天皇の孫で、「六孫王」と呼ばれた、

清和源氏の嚢祖・源経基が勧請したと云う。

承平八年(938)武蔵国司として、下って来た彼は、

当地で問題を起して、将門の介入を招き、

一連の騒ぎの発端をつくる。

まぁ、将門の乱の当事者の一人だから、

青梅に多く伝わる「将門伝承」の一つとみてよかろう。

後の戦国期に、三田氏宗が天寧寺と共に再興したのも、

そういった経緯と関るやもしれぬ。

B15011602

再び、成木街道をJR東青梅駅方向へ戻る。

天寧寺とは、三田一族にとって、どんな存在だったのか。

まず、城郭と謂っていい結構であるから、勝沼城がもしもの際に、

避難する出城の役割を果していたと考えられる。

平時は、一族のための祈願所であると同時に、

教育機関でもあったろう。

中世世界の禅寺は、仏教のみならず、人文、自然科学一般、

医学、兵法や武術まで、幅広く研究、教授していた。

大檀那であった三田一族の子弟、

もとより、政定、綱秀も、幼少期に預けられ、学んでいたと想う。

B15011603

さて「城山通り」を左折すれば、勝沼城は直ぐ近くだ。

住宅と畑地の後背に、低い丘陵の突端が観えて来た。

(捨身 Canon G1X)

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2015年1月16日 (金)

青梅の観音へ参る(13)

B15011501

前回から、三田三代、氏宗、政定、綱秀の諱(いみな)の、

偏諱(へんき)について、想いを廻らしているが、

まぁ、ある程度の見当がついてきた。

氏宗の「氏」は、初代古河公方の足利成氏(しげうじ)から受けた。

彼は「成」の字を偏諱することが通例だったが、「氏」を与えた例も、

あるからで、時代的にも合う。別して氏宗が所望したのかもしれぬ。

「弾正忠」の官職を得たのも、管領・公方の正規ルートで京都へ、

働きかけたのであろうし、その筋への謝礼には、

潤沢な「杣保」の収入で、事欠かなかったはずだ。

或いは、歌道の指南(京都直結で、意外と、失礼!高尚なのだ)を、

頼んでいた、公家の三条西家のコネも無視出来まい。

次の政定は、すんなりと成氏の子、足利政氏の「政」であろう。

最後の綱秀だけは、まるっきり事情が違っていた。「綱」の字は、

小田原北条氏二代、氏綱からと考えられるのだ。

この辺りの経緯は後述しよう。

さてと、梵鐘だ。

B15011502

ありました。

「大檀那 平氏朝臣 将門之後胤 三田弾正忠 政定」

大永元年(1521)には、氏宗の子、政定に、

代替わりを果たしていたわけだな。

B15011503

それにしても、「将門之後胤」と刻された表現の異様さよ。

彼ら三田一族の、何らかの強いメッセージが、

込められてると感じるのは、筆者の想い過ごしだろうか。

(捨身 Canon G1X)

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2015年1月15日 (木)

青梅の観音へ参る(12)

B15011401

山門は多聞天と増長天に守られている。

これは右側の増長天のほうだ。

天寧寺は、三田一族によって、戦国期の文亀年間(1501~04)に、

建立された。時の当主は、あの塩船観音寺の千手観音を、

修理させた三田氏宗である。彼より三代、子の政定、孫の綱秀で、

三田一族は滅亡するのだが、その話は後に譲る。

この寺が建つ前、当地には「高峯寺」と云う、

真言寺院が在ったらしい。天慶年間(938~46)将門創建と伝わる。

三田一族の人々は、もともと平氏姓を名乗っており、

この伝承に尋常ではない、拘りを持ったようだ。

氏宗は、上杉顕定に仕えたと云われる。当時、関東の諸豪族は、

主君の鎌倉公方や関東管領から、諱名(いみな)の前の一字を、

貰うこと(偏諱=へんき)が多かったので、「氏」の字は、

その可能性が高いと想うのだが、該当者がなかなか見つからない。

鎌倉公方が代々使った「氏」は、「通字」(とおりじ)だから、

偏諱は考え難い。管領家には、上杉氏憲(禅秀)という人がいたが、

一寸時代が早くて、微妙なところだ。

いずれにしても、彼らは、かなり「誇り」高い一族だった匂いがする。

「従五位下・弾正忠」の官職も、

単なる「受領名」ではないだろう。

B15011402

現在の伽藍は、江戸中期以降のものだが、

曹洞宗の典型的な堂宇が揃い、都下では稀有な例だそうだ。

B15011403

そうそう、梵鐘の銘を確認しなくては…

(捨身 Canon G1X)

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2015年1月14日 (水)

青梅の観音へ参る(11)

B15011301

天寧寺の「惣門」をくぐると、やや長い参道がある。
大きな寺社を探索する際は、
境域の入り口に留意するようにしている。
俗世との結界が始まるところであり、何らかの重要な、
表象が残っている場合が多いからだ。
空堀、土塁などが廻っていたりする。
(築地は高い格式が必要なので、稀だ)
此処では、杉並木が植えられている参道の両脇に注目した。
どうも、土塁の痕跡のように観えたのだ。
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その土塁状の上へ登ってみると、さらに外周を、
護岸されているが、遣水様の流れが廻っているのを確認出来た。
やはり、中世城館跡に隣接する、曹洞宗の禅寺だった。
B15011303
立派な山門に至る。
門前の石橋の下を、先ほどの遣水が流れ、
結界の役割を果しているのが判る。
かなり入念な「結構」と推察した。
この寺を建立した「勝沼城」の主、三田一族の執念の程を、
読み解いてみたくなったのは、無論であろう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月13日 (火)

青梅の観音へ参る(10)

B15011201

塩船観音寺は、奥多摩渓谷の入り口、
多摩川上流北岸の、段丘上に位置していた。
眼前を、甲州道中の裏街道だった青梅街道が通り、
さらに入間、飯能方面へ向かう、成木街道の分岐がある。
これらの街道は、近世に開かれたことになっているが、
道筋が中世世界に遡るのは、確実だと想う。
戦国期に「古青梅街道」と云うべき道を辿って、
甲州や秩父との往き来があったことが、文献で窺えるからだ。
つまり、当地は奥多摩秩父山塊から、平野への出口でもあり、
要地であったと考えられる。
塩船観音寺の至近、南西凡そ1㎞のところに、
三田一族の本拠地「勝沼城」があった。
城から観れば、違わず鬼門の方角である。
そん訳で、一旦寺を出て、周辺を探索してみることした。
B15011202
日をあらため、隣駅のJR東青梅を起点と決める。
まず「勝沼城」の周りから攻めるか。
塩船観音寺の真西、城よりは北西、
こちらも、ほぼ1㎞の「天寧寺」だ。
この際、例の梵鐘の銘文を確認して置くに如かずであろう。
鄙びた谷間の集落を過ぎ、丘陵地を只管歩行する。
B15011203
谷戸奥へ往き当たると、広大な寺院が現れた。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月12日 (月)

青梅の観音へ参る(9)

B15011101

塩船観音寺へ参ってみて、三田一族の存在が気になり始めた。
そんなわけで、当寺出て、一寸彼らの痕跡を探索しようと想う。
中世世界の青梅=「杣保」(そまのほう)を領するに至った彼らは、
戦国期の永正~天文年間(1504~55)に全盛期を迎えたようだ。
鎌倉公方と関東管領・上杉氏の有力家臣の地位を保ち、
加えて「杣」の収入で積み上がった財力がある。
非常に興味深いのは、同時代の文書に、
「山家(サンカ、或いはサンガか?)たる三田家」と云う、
表現が出てくることだ。「杣人」集団を率いる三田家、それとも、
唯単に「杣」=山中に棲む者たちを総称する意味なのだろうか。
「海賊」の頭目を「海の領主」と呼ぶのに肖って、
「山の領主」と呼ぶのも、案外、ピッタリきそうだ。
では「山賊」はどうなのかと聞かれるかもしれないが、
そういった連中も「杣」を根城とするから、
お仲間であった可能性が高い。峠の要路に「関」を設け、
「関銭」を払わない旅人を襲わせるなんてことがあり得た。
三田一族=山賊頭目説も、強ち荒唐無稽とは云い切れまい。
B15011102
享徳の乱(1454)以降、関東は戦乱の巷となる。
その中で、鎌倉公方、両上杉氏は急速に没落し、
小田原北条氏の力が圧倒して往く。
各地の領主たちは、小田原の傘下へ入らざるを得なくなった。
三田一族も、一度は折り合いをつけ、従ったのだが、
事は、そう簡単には運ばなかったらしい。
彼らにとって、まさに「想定外」事態が待っていたのだった。
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(捨身 Canon G1X)

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2015年1月11日 (日)

青梅の観音へ参る(8)

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中世世界の青梅=「杣保」(そまのほう)と三田一族について、

読み解きを始める前に、暫時閑話休題としよう。

何せ、些か深い話なので、頭の整理も必要だ。

そう謂えば、未だ塩船観音寺の宗派に触れていなかった。

真言宗醍醐寺派、つまり「当山派」の修験道である。

だから、こんな光景も観ることが出来る。

交通安全のご祈祷か。

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興味深いので、一寸見学させて頂いた。

修験の寺だから、往時は山伏の大基地であった可能性が高い。

僧坊が立ち並び、各地の山伏たちが足繁く出入りしていたであろう。

もとより「杣人」(そまびと)を束ねる立場にあった、三田一族が、

山伏と同じ「山仲間」として「大檀那」になったはずだ。

彼らによって、立派な堂舎と仏像群が整備されて往ったのだ。

そう、抑々「八百比丘尼」開創伝説と云うのがあった。

「八百比丘尼」に遍歴する女性宗教者、熊野比丘尼歩き巫女の、

足跡を仮託したとも、謂えなくもないだろう。

彼女たちは、山伏と同業者と云っていい。

女房殿に収まるケースも間々あったようだ。

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さて、寺直営の茶店で見つけた「観音だんご」のこと。

なんと、あの懐かしの「醤油焼き団子」なのである。

当地も「文化圏」に入るのか。

「醤油二度付け」で、たのんでみたら、OKだった。

(捨身 Canon G1X)

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2015年1月10日 (土)

青梅の観音へ参る(7)

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塩船観音寺には、阿弥陀堂、観音堂(本堂)ときて、
薬師堂まで備わって居る。
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何か絵に描いたようと謂うか、映画のセットめいた感じの、
可愛らしい小堂である。
建立は、桃山期ではないかと云われる。
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堂内には、平安後期の薬師来立像が祀られていた。
傷み進み「古拙」だが、典型的な一木造りで、
もとは、日光・月光両菩薩が揃う三尊仏だったのだろう。
都から遠く離れた、坂東の山間、
かつての「杣保」(そまのほう)の風光も斯くやと、
語ってくれる、数少ない証言者なのであろうか。
さて、三田一族のその後と、
残った「謎」について、さらに触れねばなるまい。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月 9日 (金)

青梅の観音へ参る(6)

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「大檀那平氏朝臣将門之後裔三田弾正忠政定」
青梅市内の天寧寺の梵鐘銘にそう刻まれているそうだ。
氏宗の子政定が大永元年(1521)に奉納したものだ。
異様なほどの「将門之後裔」への誇りと謂うか、
執着が看て取れよう。
だが、彼らが将門の後裔どころか、平氏である確証も全く無い。
当地、「杣保」(そまのほう)では「三田」と呼ぶ字名が、
見出せず、本貫地であることも疑われているようだ。
おそらく、何処からか移ってきた一族なのだろうが、
最近では、武蔵国・荏原郡三田、
(現・目黒区三田、筆者渋谷の旧居の最寄だった!)
本貫地説も飛び出しているらしい。
もとより、目黒のほうには痕跡すら残っていないから、
飽くまでも、推測である。
写真上、境内には、樹齢千年の大杉の他に大楠がある。
こちらも、参道を挟むように対になっている。
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山門(重文指定)の八脚柱内の一本を示す。
手斧(ちょうな)と槍鉋(やりがんな)のみで製材された、
中世の材(室町後期)だろう。
いつもながら、魅かれて止まないわけだ。
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青梅市も、南関東の他地域の同様、中世板碑の宝庫だ。
本堂・観音堂の傍らに「板碑堂」が設えられている。
高さ2mに達する、永仁四年(1296)銘の「大板碑」
頂部は欠損するが、連弁の浮彫りを施すなど、
入念な仕上げで、優品と観た。
このほかにも、百枚以上残っているとのことだった。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月 8日 (木)

青梅の観音へ参る(5)

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千手観音立像の光背裏に、永正九年(1512)三田弾正忠氏宗、

(だんじょうのちゅう・うじむね)と云う者が、鎌倉の仏師・弘円に、

修理させたと記されている。この三田某なる一族、実は大変な力を、

持っていたようなのだ。吾妻鏡などの記録に、鎌倉中期から、

三田姓名乗る者が散見出来、おそらく、その頃までには、

当地の領主に納まっていたと考えられる。

現在の青梅市と多摩川上流の渓谷一帯は、

「杣保」(そまのほ=ほう :古代律令制の行政単位。

   中世では荘・郷・名と並ぶ、別立ての所領の呼称、

   あるいは、京鎌倉などの都市の最小行政単位を指す。

   謂うまでもなく、杣とは木材を産する山林のことだ)

と呼ばれ、平安後期には、武蔵国府より公認されていたであろう。

公領(国衙領)であったか、私領であったかは判らないが、

現地の主だった者が「保司」(ほうじ=ほうのつかさ)と云う、

監督者となった。三田一族は、代々「保司」を務めたのであろうか。

とすれば、平安中期以前、古代へ遡る可能性も捨てきれない。

彼らは何と「平将門の後裔」を自称して(市内の寺の梵鐘銘に記す)

憚らなかった。確かに、青梅地方は将門伝説が多いのだが。

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「杣保」は南関東周辺の寺社建築用資材の主要な供給地であり、

「保司」の地位は莫大な収入を齎したはずである。

木材を切り出す杣人製材に携わる番匠、

木材を流した多摩川の筏師、川並衆、

木製品を削る木地師漆を採る塗師

膨大な人数の職人たちを束ねて居たのではないか。

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一方で、三田一族は鎌倉御家人の地位を保ち、

室町期に入ると、鎌倉公方、関東管領上杉氏の有力家臣となって、

此処、奥多摩渓谷の入り口に舘を構え、蟠踞し続けた。

財力も、溜りに溜まって往ったに違いない。

そして、戦国期へ至るわけだ。

(捨身 Canon G1X)

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2015年1月 7日 (水)

青梅の観音へ参る(4)

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「道往」の最終段階、この石段を登れば本堂に至る。

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本堂正面にて。
「十一面千手観音」を祀る観音堂である。
この堂も、室町末期建立で「重文指定」だ。
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通常、秘仏だが、正月三が日は開扉される。
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条件はよくないけど、目一杯のズーミングで捉えてみた。
像高1.4m文永元年(1264)の胎内銘を持つ、鎌倉仏(都文指定)だ。
表情もなかなかで、いい観音立像だと想う。
厨子(重文指定)も立派だ。
中世世界の当地、青梅には、かなりの「大檀那」が居たのだろう。
その辺りの事情を一寸考えてみる。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月 6日 (火)

青梅の観音へ参る(3)

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「八百比丘尼」の後、「天平年間」(729~49)の行基の再興、
そして「貞観年間」(859~77)の安然の、
(あんねん=最澄の同族と云う天台宗の学僧。円仁の弟子とも)
堂塔整備などと続くが、いずれも、絵に描いたような伝承だろう。
江戸期成立の縁起も「あまりに古く詳らか為らず」と記す。
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重文の阿弥陀堂は、素朴な茅葺(現状は銅覆葺)
天井を張らないので、未完の可能性がある。
建立時(戦国期)の、当地の情勢と関るかもしれない(後述)
本尊の阿弥陀仏は近世、脇侍の観音・勢至は鎌倉期と室町期だ。
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阿弥陀堂を過ぎ、参道をさらに進む。
そう長くはないが、他の霊験所同様、
本堂へ至る「道往」を体験出来る。
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もとより「道往」は極楽往生の「見立て」であろう。
結界を守るため、山門の他にも仕掛けがある。
道を挟み、関門の如く聳え立つ、二本の大杉だ。
樹齢千年は越えよう。自然石がそうだったように、
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月 5日 (月)

青梅の観音へ参る(2)

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素朴でこぢんまりとした山門だが、侮れない。
室町後期の建立で重文指定、れっきとした中世建築だ。
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山門内の金剛力士像。
やや小ぶりながら古拙、鎌倉期(都文指定)へ遡るようだ。
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山門をくぐって、やや参道を進むと、まず、阿弥陀堂が現れる。
この阿弥陀堂も、室町後期建立、勿論、重文指定だ。
ここまで来て、この寺が一寸した古刹であることが判るだろう。
でも「塩船観音寺」の歴史は、甚だ朧げなのだ。
寺伝に拠るしかないが、「大化年間」(645~50)と云うから、
飛鳥時代だ。若狭国から、当地に至った「八百比丘尼」
(やおびくに:はっびゃくびくに=人魚を食して、不老長寿を、
 得たと伝わる女性)が「紫金(赤銅)一寸八分」の観音像を、
祀ったのが始まりとする。
「八百比丘尼」の説話は、各地にあるらしく、
いずれにせよ、要読み解きであろうな。
(捨身 Canon G1X)

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2015年1月 4日 (日)

青梅の観音へ参る(1)

B15010301

年末のPCクラッシュは、実のところ、応えた。

年初でもあり、この際、観音の慈悲と功徳を蒙るに如かずと、

最寄りで、未だ探索していない観音の霊験所を求め…

B15010302
隣町の(と云っても電車とバスで一時間以上掛るが)青梅市に至る。
B15010303
茶畑と集落を抜け、こんな道を辿って…
多摩川北岸上の山裾に、目指す霊験所を見つけた。
B15010304
漸く門前に着く。
「塩船観音寺」と云う。
(捨身 Canon G1X)

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