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2015年2月 5日 (木)

青梅の観音へ参る(32)

B15020401

「七兵衛公園」前の青梅街道沿いに並ぶ地蔵や石塔群。
賽の神もそうだが、典型的な宿境の風景だろう。
文久、文化の紀年銘が読み取れた。
因みに、一番左は、昭和四十六年、自治会建立の、
町名が「裏宿」に戻った「変還記念」碑だった。
B15020402
さて「七兵衛公園」のことだ。
ご利益を願う人々が欠いて往ったと想われる、
傷だらけの供養塔が入り口に立っている。
この七兵衛の屋敷跡は、所有者が変わっても不幸が絶えず、
(最終的には、このように公有地となった)
宿内の彼の持ち畑も、物成りが悪かったと云い、
「七兵衛の怨霊」と怖れられたと伝わる。
まぁ、この手の物語は、生前の七兵衛を知る人々の記憶と、
シンパシィが代を重ね、育んだとも謂えなくもない。
「将門」「義経」に始まり、枚挙の暇が無いが、
怖ろしい怨霊ほど、転じて霊験あらたかな神となるものである。
七兵衛の「健脚」に肖って、今も、足腰の病、マラソン必勝と、
恃む人が絶えないようだ。
B15020403
奥に現在の供養塔がある。
右手は、昭和三十五年に建てられた顕彰碑だ。
旧町名の「梅園町」が刻まれてるのが興味深い。
B15020404
七兵衛の身代がどれほどだったか判らないが、
筆者は富裕だったと睨んでいる。
屋敷跡と云われる「七兵衛公園」の広さは、結構なものなのだ。
中世世界以来、咎人の在所は、
跡形もなく破却される習いがあった。
一種の「穢れ」と認識されたためだろう。
同時に、怨霊となった場合も、鎮めの庭は在所跡であった。
当地も、其の儘な経緯を辿ったわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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