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2015年2月 9日 (月)

青梅の観音へ参る(36)

B15020801

渓谷の中腹にある無人駅を降りると、もう、山里の風情だ。
「杣保」(そまのほう)であったことを実感できる。
「軍畑」(いくさばた)とは、一寸気になる地名だ。
やはり、案の如く「戦庭」(いくさば)に因むものだろうか。
永禄四~六年(1561~63)当地は、
三田一族、最後の戦場であった。
北側の稜線上に築かれた、「詰城」(つめのしろ)
「辛垣城」(からかい)へ、小田原北条勢が押し寄せたのだ。
既に、本拠の「勝沼館」は、形勢不利と放棄しており、
一族は、この山間の険へ、引き籠っていたところだった。
B15020802
かつて、千を数えた三田勢は、百騎程度まで減っていたらしい。
対する北条勢は一万を超えており、最近の研究に拠れば、
当主・氏康自ら出馬したと記す文書も見つかっている。
従来は、八王子(滝山城主)領主の三男・氏照が、
寄手の大将だったと云われてきたが、未だ若年で、
一隊を率いて参陣したのが実情のようだ。
B15020803
激しい攻防戦が、多摩川上流を挟んだこの谷間で、
繰り広げられたが、戦国の例に違わず、寝返りも出て、
ついに破られる。
稜線上の城は、その日の内に落ちた。
B15020804
戦死者を埋葬したと伝える「塚」が現存する。
上掲、右手眼下の一叢の木立がそれで、
「鎧塚」(よろいづか)と呼ぶ。
左手の頂きが「辛垣城」の在った辺りだ。
あの山城(標高約五百とか)は辛いとしても、
「塚」は必見であろう。
これから、探索へ下る。
(捨身 Canon G1X)

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