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2015年2月11日 (水)

青梅の観音へ参る(38)

B15021001

「鎧塚」は、巨大な土饅頭の如くであり、斜度は急だ。
やっと、頂上の祠が目前に迫る。
B15021002
振り返ると、北側の「辛垣城」(からかい)がよく観えた。
遺跡上の眺望は重要である。
先人の意図が籠められていることもあるからだ。
B15021003
塚上には、古いものは何も残っていなかった。
因みに、文化文政期(1804~29)に編纂された地誌で、
定番中の史料、「新編武蔵風土記稿」を引用してみる。
現在まで「鎧塚」で、判明していることはこれに尽きてしまう。
…街道の傍にて、小名「軍場」(いくさば)にあり。
  塚高さ一丈(3.03m)周廻十五間(27.27m)許、
 塚上六尺(1.82m)四方程の所に、
 一尺(30.3㎝)餘の小祠を安す。「鎧塚明神」と號す。
 二俣尾の城(辛垣城)永禄六年(1563)落城の時、
 討死の者の兵器を埋し塚なりと云。
 鐵器(鉄器)の破れ又は刀剱(剣)の折れたるものを、
 土人(住民)穿(掘)出せしことありと云…
土饅頭は、典型的な中世墓の一形式であるにしても、
上述の記録の限りに於いては、
(五輪塔や宝篋印塔に類する供養塔も現存していない)
戦死者の墳墓とは言い切れないようだ。
B15021004
小祠前面より、南側を望む。
やはり、直ぐ眼下は、中世古道と青梅街道の交差点も掌の内だ。
この塚は、街道の辻に伴う、何らかの施設、
賽の神か、一里塚と想えば、合点が往くかもしれぬ。
其処に、永禄年間の三田一族の「辛垣合戦譚」が加わった。
どちらも故あって、重なったことであり、
もとより由緒も揺らぐことはないだろう。
(捨身 Canon G1X)

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