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2015年2月14日 (土)

青梅の観音へ参る(41)

B15021301

三田一族が関東管領上杉氏から、小田原北条氏へ服属したのは、
他の関東の諸豪族に比べれば、比較的早かったと想われる。
と云うのは、最後の当主、綱秀が北条氏二代・氏綱から、
偏諱を受けていたと、考えられるからだ。
と謂っても、綱秀(1491?~1563?)と氏綱(1487~1541)は、
五つしか年が違わないが。
父親・伊勢宗瑞(早雲)の晩年に、双方は既に気脈を通じており、
氏綱が家督相続(永正15年=1518)する、一寸前あたりには、
正式に、幕下へ入ったのであろうか。
関東へ来て間もない北条氏が、未だ伊勢氏を称していた頃であり、
将門後裔を名乗る、三田氏としても、
同じ「平氏」と恃む気持ちがあったかもしれぬ。
この関係は、小田原が三代・氏康に変わっても維持され、
関東の諸氏が雪崩を打って北条へ靡いた時も、変わらなかった。
でも、その際に北条へ下った、八王子の大石氏らが、
氏康の息子(氏照)を養子に迎えるなど「優遇」されたため、
綱秀は北条家内の三田氏の処遇に、密かに不満を持ったとも、
云われる。北条側にしてみれば、
「三田は、今の世に将門後裔とか、烏滸がましい限りだ。
 所詮、多摩の山家(山賤=やまがつ)よ」と、
軽く見るようになっていたのか。
永禄三年(1560)越後の長尾景虎(上杉謙信)が、
小田原を攻めると同時に、綱秀は意を決したのか、
北条と袂を分かつ。
越後勢が引き上げた後も、三田一族は抵抗を続け、
ついに「辛垣城」(からかい)合戦へ至るわけだ。
B15021303
寺の西側斜面に、三田一族の墓所がある。
B15021304
綱秀と妻子の墓石と伝わっていたが、
ご覧の通り、近世前期の宝篋印塔と五輪塔群であろう。
子孫(分家が北条側に付き、後に徳川の旗本となる)か、
当地に棲む家臣筋の者たちが立てた供養塔とみられる。
B15021305
宝篋印塔の側面に刻まれていたのは、
紛れも無く、三田一族の家紋「左三つ巴」だった。
(捨身 Canon G1X)

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