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2015年2月15日 (日)

青梅の観音へ参る(42)

B15021401

本堂裏手の墓域へ登る。
三田一族が滅亡した「辛垣城」(からかい)合戦は、
永禄三年(1560)長尾景虎(上杉謙信)小田原攻めの直後、
永禄四~六年(1561~63)に起こったとされているが、
最近では、永禄四年説が有力なようだ。
季節は三月とも云う。
僅かな供廻りと、乗願寺の時衆を引具した三田綱秀は、
岩槻城(さいたま市岩槻区)の太田資正のもとへ落ち延びた。
だが、其処で進退窮まる。
恃みの太田氏が割れ、北条方へ寝返っていたのだ。
時衆が念仏を唱える中、
綱秀は自害して果てた。
一説に、彼は既に齢七十を超えていたらしい。
「もういいだろう」そんな心境だったのか。
B15021402
本堂を振り返ってみたところ。
境内の配置は、多くの曹洞宗寺院の例に倣う。
墓石の列が観えるが、歴代住職のものだ。
B15021403
墓域の脇に、綱秀の首塚と伝わる小さな五輪塔があった。
形式としては、近世前期に属する。
家臣の一人が当地へ携え、密かに葬ったのだと伝わる。
(捨身 Canon G1X)

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