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2015年2月の記事

2015年2月16日 (月)

青梅の観音へ参る(43)

B15021501

往時の「杣道」(そまみち)のイメージを追って、
海禅寺墓域裏の「辛垣城」尾根へ続く、
登山道を彷徨ってみた。
想えば、初めて塩船観音寺を訪ねたのは、
極寒の一月初旬だった。
B15021502
郷土博物館内に移築保存されている「旧宮崎家住宅」にて。
江戸中期に建てられた古民家で、重文指定になっている。
面白いのは、普通の農家ではなくて、
「杣人」(そまびと)の在家だったことだ。
囲炉裏端、土間の他、二間のみの、こぢんまりとした造りだが、
使われた柱梁は敢て、中世世界その儘の、古風な、
手斧(ちょうな)槍鉋(やりがんな)仕上げなのが素晴らしい。
「杣人」の矜持がそうさせたのだと云う。
探索の終わりに「杣人」(山人)の残影に浸る。
B15021503
既に海禅寺の紅梅が満開だった。
B15021504
春の気配を感じながら、帰途に就く。
………………………………………………………………………
…追伸、もう一寸暖気至る迄、暫時更新を休みます。
 (と謂っても、そう長いインターバルにはなりませんが)
 その間、ツイッターを覗いて下されば幸いです…
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月15日 (日)

青梅の観音へ参る(42)

B15021401

本堂裏手の墓域へ登る。
三田一族が滅亡した「辛垣城」(からかい)合戦は、
永禄三年(1560)長尾景虎(上杉謙信)小田原攻めの直後、
永禄四~六年(1561~63)に起こったとされているが、
最近では、永禄四年説が有力なようだ。
季節は三月とも云う。
僅かな供廻りと、乗願寺の時衆を引具した三田綱秀は、
岩槻城(さいたま市岩槻区)の太田資正のもとへ落ち延びた。
だが、其処で進退窮まる。
恃みの太田氏が割れ、北条方へ寝返っていたのだ。
時衆が念仏を唱える中、
綱秀は自害して果てた。
一説に、彼は既に齢七十を超えていたらしい。
「もういいだろう」そんな心境だったのか。
B15021402
本堂を振り返ってみたところ。
境内の配置は、多くの曹洞宗寺院の例に倣う。
墓石の列が観えるが、歴代住職のものだ。
B15021403
墓域の脇に、綱秀の首塚と伝わる小さな五輪塔があった。
形式としては、近世前期に属する。
家臣の一人が当地へ携え、密かに葬ったのだと伝わる。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月14日 (土)

青梅の観音へ参る(41)

B15021301

三田一族が関東管領上杉氏から、小田原北条氏へ服属したのは、
他の関東の諸豪族に比べれば、比較的早かったと想われる。
と云うのは、最後の当主、綱秀が北条氏二代・氏綱から、
偏諱を受けていたと、考えられるからだ。
と謂っても、綱秀(1491?~1563?)と氏綱(1487~1541)は、
五つしか年が違わないが。
父親・伊勢宗瑞(早雲)の晩年に、双方は既に気脈を通じており、
氏綱が家督相続(永正15年=1518)する、一寸前あたりには、
正式に、幕下へ入ったのであろうか。
関東へ来て間もない北条氏が、未だ伊勢氏を称していた頃であり、
将門後裔を名乗る、三田氏としても、
同じ「平氏」と恃む気持ちがあったかもしれぬ。
この関係は、小田原が三代・氏康に変わっても維持され、
関東の諸氏が雪崩を打って北条へ靡いた時も、変わらなかった。
でも、その際に北条へ下った、八王子の大石氏らが、
氏康の息子(氏照)を養子に迎えるなど「優遇」されたため、
綱秀は北条家内の三田氏の処遇に、密かに不満を持ったとも、
云われる。北条側にしてみれば、
「三田は、今の世に将門後裔とか、烏滸がましい限りだ。
 所詮、多摩の山家(山賤=やまがつ)よ」と、
軽く見るようになっていたのか。
永禄三年(1560)越後の長尾景虎(上杉謙信)が、
小田原を攻めると同時に、綱秀は意を決したのか、
北条と袂を分かつ。
越後勢が引き上げた後も、三田一族は抵抗を続け、
ついに「辛垣城」(からかい)合戦へ至るわけだ。
B15021303
寺の西側斜面に、三田一族の墓所がある。
B15021304
綱秀と妻子の墓石と伝わっていたが、
ご覧の通り、近世前期の宝篋印塔と五輪塔群であろう。
子孫(分家が北条側に付き、後に徳川の旗本となる)か、
当地に棲む家臣筋の者たちが立てた供養塔とみられる。
B15021305
宝篋印塔の側面に刻まれていたのは、
紛れも無く、三田一族の家紋「左三つ巴」だった。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月13日 (金)

青梅の観音へ参る(40)

B15021201

今回、最後の探索地「海禅寺」に至る。
もとより、立派な禅寺である。
ゆっくりと石段を登ろう。
決して、勿体ぶっているのではなくて、
飽く迄も「余韻」を愉しみたいわけだ。
B15021202
この寺も、青梅市内の他寺と同様、北側の山裾に位置し、
南側の多摩川渓谷と街道を見下す「勝地」となっている。
蓋し「吉相」であろうか。
B15021203
室町期の寛正年間(1460~66)の開山で、
天文年間(1532~55)に、三田一族の菩提寺として、
最後の当主・綱秀が堂塔を整備したようだ。
だが「辛垣城」(からかい)攻防戦で焼亡、現在の伽藍は、
江戸期に入って再興されたものだ。
この辺りは、背後の頂に控える「辛垣城」南側の、
前哨線にあたり、「出丸」の役割も果たしていたと考えられる。
斜面を削平した寺域に、土塁、空堀、楼門を配して、
勝沼館の天寧寺の如く、恰も城郭を呈していたから、
攻め寄せる北条勢に、まず攻撃目標にされ、
火を掛けられたのだろう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月12日 (木)

青梅の観音へ参る(39)

B15021005

「鎧塚明神」に手向けられていたのは、
地元の銘酒「澤乃井」だった。
さて、塚を下って、隣駅の二俣尾へ向かおう。
目指すのは、三田一族の菩提寺である。
B15021101
「辛垣城」の落城後、当主・三田綱秀は落ち延びる。
予て案内(あない)知る、山中の「杣道」を辿ったのだろうか。
北条勢も、寝返った三田家中の「杣の者」や、
山伏を捜索に動員したはずだが、容易に補足出来なかった。
さすがに山慣れた足取り、それと、何と云っても、
かつての主君だ。サボタージュもあったかもしれぬ。
綱秀らは、背後の山塊を伝い、飯能、高麗方面へ抜けて、
武蔵国では唯一の味方、岩槻城(現さいたま市岩槻区)の、
太田資正を頼ったようだ。
従ったのは僅かな供廻りと、乗願寺の時衆だけであったろう。
B15021102
JR二俣尾駅に着いた。
菩提寺の「海禅寺」へは、左手の線路沿いを進む。
位置的には「辛垣城」南側の麓辺りだ。
B15021103
門前が観えてきた。
ここも、立派な曹洞宗の禅寺のようだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月11日 (水)

青梅の観音へ参る(38)

B15021001

「鎧塚」は、巨大な土饅頭の如くであり、斜度は急だ。
やっと、頂上の祠が目前に迫る。
B15021002
振り返ると、北側の「辛垣城」(からかい)がよく観えた。
遺跡上の眺望は重要である。
先人の意図が籠められていることもあるからだ。
B15021003
塚上には、古いものは何も残っていなかった。
因みに、文化文政期(1804~29)に編纂された地誌で、
定番中の史料、「新編武蔵風土記稿」を引用してみる。
現在まで「鎧塚」で、判明していることはこれに尽きてしまう。
…街道の傍にて、小名「軍場」(いくさば)にあり。
  塚高さ一丈(3.03m)周廻十五間(27.27m)許、
 塚上六尺(1.82m)四方程の所に、
 一尺(30.3㎝)餘の小祠を安す。「鎧塚明神」と號す。
 二俣尾の城(辛垣城)永禄六年(1563)落城の時、
 討死の者の兵器を埋し塚なりと云。
 鐵器(鉄器)の破れ又は刀剱(剣)の折れたるものを、
 土人(住民)穿(掘)出せしことありと云…
土饅頭は、典型的な中世墓の一形式であるにしても、
上述の記録の限りに於いては、
(五輪塔や宝篋印塔に類する供養塔も現存していない)
戦死者の墳墓とは言い切れないようだ。
B15021004
小祠前面より、南側を望む。
やはり、直ぐ眼下は、中世古道と青梅街道の交差点も掌の内だ。
この塚は、街道の辻に伴う、何らかの施設、
賽の神か、一里塚と想えば、合点が往くかもしれぬ。
其処に、永禄年間の三田一族の「辛垣合戦譚」が加わった。
どちらも故あって、重なったことであり、
もとより由緒も揺らぐことはないだろう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月10日 (火)

青梅の観音へ参る(37)

B15020901

「鎧塚」へ近づく。
塚の前を南北に走る道は、中世古道と伝わる。
町田から、相模原、橋本を経て、御殿峠、高尾、元八王子、
秋川、五日市、日之出町と、奥多摩山塊の際を抜けて、
当地を通り、秩父へ向かうと云うことになっているが、
経路については、未だ不明な点も多い。
その道と青梅街道が交差するのが、この谷間であって、
「辛垣城」(かいらい)は、見下ろせる北側の稜線上に、
築かれたのだから、山城の立地としては、お約束通りであろう。
おそらく、北条が攻めてくるずっと以前から、
この城は存在していたはずで、鎌倉との繋がりを重視した、
三田一族にとっては、第二の重要拠点であったと想われる。
B15020902
ズーミングアップしてみると、塚上に小祠が在るのが判る。
B15020903
「鎧塚」前に至る。
おっと、参道が崩れて、通行禁止の表示だ。
今回の探索の最終ステージである。
諦めてはならぬ。
搦手(からめて)へ廻れないか。
B15020904
裏の畑地に入り込む。
ちょうどやって来た列車の後に、聳えるのが「辛垣城」だ。
あの鉄橋下を平溝川が流れ、直ぐに多摩川と合流する。
「二俣尾」(ふたまたお)の地名由来だろうか。
B15020905
目論見通り、此処なら塚上へ登れそうだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月 9日 (月)

青梅の観音へ参る(36)

B15020801

渓谷の中腹にある無人駅を降りると、もう、山里の風情だ。
「杣保」(そまのほう)であったことを実感できる。
「軍畑」(いくさばた)とは、一寸気になる地名だ。
やはり、案の如く「戦庭」(いくさば)に因むものだろうか。
永禄四~六年(1561~63)当地は、
三田一族、最後の戦場であった。
北側の稜線上に築かれた、「詰城」(つめのしろ)
「辛垣城」(からかい)へ、小田原北条勢が押し寄せたのだ。
既に、本拠の「勝沼館」は、形勢不利と放棄しており、
一族は、この山間の険へ、引き籠っていたところだった。
B15020802
かつて、千を数えた三田勢は、百騎程度まで減っていたらしい。
対する北条勢は一万を超えており、最近の研究に拠れば、
当主・氏康自ら出馬したと記す文書も見つかっている。
従来は、八王子(滝山城主)領主の三男・氏照が、
寄手の大将だったと云われてきたが、未だ若年で、
一隊を率いて参陣したのが実情のようだ。
B15020803
激しい攻防戦が、多摩川上流を挟んだこの谷間で、
繰り広げられたが、戦国の例に違わず、寝返りも出て、
ついに破られる。
稜線上の城は、その日の内に落ちた。
B15020804
戦死者を埋葬したと伝える「塚」が現存する。
上掲、右手眼下の一叢の木立がそれで、
「鎧塚」(よろいづか)と呼ぶ。
左手の頂きが「辛垣城」の在った辺りだ。
あの山城(標高約五百とか)は辛いとしても、
「塚」は必見であろう。
これから、探索へ下る。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月 8日 (日)

青梅の観音へ参る(35)

B15020701

今まで「裏宿の七兵衛」の物語を綴ってきたけれど、
その殆どが、青梅宿で語られる伝承だった。
ほぼ信用出来る記録は、たった二つしか現存していない。
まず、前回引用した、墓所のある宗建寺の過去帳、
そして、昭和二十五年に、此処より、多摩川上流を、
やや山間へ入った二俣尾村(ふたまたお)の名主、
谷合家で発見された「谷合氏見聞録」である。
元禄十一年(1698)に始まり、寛保四年(1744)へ至る、
凡そ五十年間に、同家の当主が、当時の世相や風聞を、
書き留めたものだ。
七兵衛のことは、元文四年(1739)村山三ツ木で捕縛、
処刑後、青梅宿・笹ノ門に梟首されたのみを記す。
同書は、前年の元文三年(1738)当地を含む、
武蔵西部、多摩地方が長雨で凶作云々とも書いているので、
七兵衛一党の盗賊騒動の背景も窺わせてくれるわけだ。
B15020702
江戸期の文書の量は、中世に比べれば、圧倒的に多い。
筆者の周りでも、建て替えや蔵の整理の際に、大量の文書が現れ、
困り果て、焼却に何日もかかったなんて話を聞くことがある。
厖大な近世文書の解読と整理に、人手と予算が不足し、
自治体も往生しているらしい。
でも、上述のような、貴重な記録が混じっているかもしれず、
実に、悩ましいところだ。
今後、七兵衛に関る新しい文書が見つかる可能性も捨て切れまい。
さて、宿の路地裏を後にしようか。
B15020703
JR青梅駅へ戻る途中、再び、宿の東端の「筋替」前を過ぎる。
右信号下の交番跡辺りに、七兵衛が梟首された、
高札場が在ったのではないかと想う。
B15020704
日を変えて、青梅駅より五つ目「軍畑」(いくさばた)駅に降り立つ。
いよいよ、今回の探索の最終ステージへ臨む。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月 7日 (土)

青梅の観音へ参る(34)

B15020601

「裏宿の七兵衛」が葬られているのは、
住吉社頭から、青梅街道を渡って、宿の南側の、
宗建寺と云う、臨済宗の寺院だ。
多摩川縁へ下る、緩やかな坂の途中にその寺は在った。
B15020602
裏門より墓域へ向かう。
元文四年(1739)十月、村山三ツ木(武蔵村山三ツ木)で、
捕縛された七兵衛は、翌十一月、同地にて処刑、
首は青梅宿へ送られ、住吉社頭「笹ノ門」に晒された。
中世世界以来の習いで、梟首された者の骸は、
葬送を許されず「打ち捨て」であった。
当寺は「笹ノ門」の坂下にあたったため、
流れて来た、無縁の首を拾ったと称して、
住職が懇ろに供養、埋葬したのだった。
B15020603
過去帳には、青梅ではよく知られた文言が記されている。
「五月三日 法山祖憧信士 年号不知 裏宿ノ人也  
 俗名七兵衛 由来不可尋 永々回向可致者也」
文中、特に…(七兵衛の)由来(素性)を尋ねるべからず。
(但し)永々、回向致すべきものなり…とあるのは、
殊更に、異様と謂わねばならない。
咎人であることを憚ったとみるべきだろうが、
筆者は、どうしても、
賤視された人々の残影を追ってしまうのだ。
B15020604
参拝者が絶えぬ風情の七兵衛の墓所。
想えば、観音に始まり、青梅宿も、奥深く分け入ったもの哉…
でも、未だ最後の仕上げが残って居る。
今一寸、お付き合い下れば、幸いです。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月 6日 (金)

青梅の観音へ参る(33)

B15020501

住吉社近くの寺に、七兵衛の墓があるそうなので、
「裏宿」を後にして、再び青梅宿の中心へ戻ることにする。
ところで、七兵衛のことを想い廻らしていて、
ふと、所沢に居た、母方の祖母の昔語りを想い出した。
たしか、
「昔、褌が地に着かないくらいに、足の速い盗賊がいたよ」
だったか。
まさに、青梅で語られている七兵衛の挿話と重なり、
幼少期の朧げな記憶が、時空を超えて、
ひょんなことで邂逅を果す。
一寸した、不思議な気分だったが、
この昔語りの、侮れない一面にも気付いた。
七兵衛一党が捕縛されたのは、青梅街道上の「村山三ツ木」
(現・武蔵村山市三ツ木)であった。
分岐点でもあって、所沢とは、至近なのである。
その街道筋の路地裏に、
七兵衛の物語りが、実感を持って語られた、
祖母の棲む、あの町屋があったわけだ。
B15020502
さて、青梅宿の内は「昭和の町」がよく残っている。
満喫するなら、今のうちであろう。
もとより、時間はあまり残っていないはずだ。
B15020504
絵に描いたような写真館にも出逢える。
B15020503
現存中の、宿々の路地裏では、
(飽く迄も、筆者の勝手な印象に過ぎないが)
秀逸の部類に入るのではないか。
何故か、一番、心に沁入るスポットだった。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月 5日 (木)

青梅の観音へ参る(32)

B15020401

「七兵衛公園」前の青梅街道沿いに並ぶ地蔵や石塔群。
賽の神もそうだが、典型的な宿境の風景だろう。
文久、文化の紀年銘が読み取れた。
因みに、一番左は、昭和四十六年、自治会建立の、
町名が「裏宿」に戻った「変還記念」碑だった。
B15020402
さて「七兵衛公園」のことだ。
ご利益を願う人々が欠いて往ったと想われる、
傷だらけの供養塔が入り口に立っている。
この七兵衛の屋敷跡は、所有者が変わっても不幸が絶えず、
(最終的には、このように公有地となった)
宿内の彼の持ち畑も、物成りが悪かったと云い、
「七兵衛の怨霊」と怖れられたと伝わる。
まぁ、この手の物語は、生前の七兵衛を知る人々の記憶と、
シンパシィが代を重ね、育んだとも謂えなくもない。
「将門」「義経」に始まり、枚挙の暇が無いが、
怖ろしい怨霊ほど、転じて霊験あらたかな神となるものである。
七兵衛の「健脚」に肖って、今も、足腰の病、マラソン必勝と、
恃む人が絶えないようだ。
B15020403
奥に現在の供養塔がある。
右手は、昭和三十五年に建てられた顕彰碑だ。
旧町名の「梅園町」が刻まれてるのが興味深い。
B15020404
七兵衛の身代がどれほどだったか判らないが、
筆者は富裕だったと睨んでいる。
屋敷跡と云われる「七兵衛公園」の広さは、結構なものなのだ。
中世世界以来、咎人の在所は、
跡形もなく破却される習いがあった。
一種の「穢れ」と認識されたためだろう。
同時に、怨霊となった場合も、鎮めの庭は在所跡であった。
当地も、其の儘な経緯を辿ったわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月 4日 (水)

青梅の観音へ参る(31)

B15020301

「裏宿」は、宿外れの寂寥感を満喫できる、
首都圏でも、数少ないスポットだろう。
穴場と謂っていいかもしれぬ。
現役の赤丸ポストに出逢う。市内では二つ目か。
B15020302
戦後「裏宿」の響きが如何にも暗いと、町名変更の動きがあった。
一度は、青梅に因んで「梅園」とか云う(和菓子店ではない)
町名に変わったが、程なく、青梅町への新地番変更に伴い、
その町名も消えた。そして、再び「裏宿」の町名に戻ったのは、
既述の通りである。
繰り返すけれど、この「英断」には賛意を表そう。
筆者は、
(まぁ、キャラが明るいほうではないのは、重々自覚して居るが)
「裏宿」の字名が持つ、深い深い響きに魅かれ、
何とも好ましいと想うからこそ、こうして当地を彷徨っているわけだ。
B15020303
さて、とりあえず目指した「七兵衛公園」に辿り着いた。
その名の如く「裏宿の七兵衛」の屋敷跡と伝える。
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月 3日 (火)

青梅の観音へ参る(30)

B15020201

「森下陣屋」の「筋替」が終わった辺りで、青梅街道に戻る。
熊野社と大カシを後背から観たところだ。
「裏宿」の内を街道沿いに暫し進む。
B15020202
おっと、道の向こう側に気になるものを見つけた。
不思議な大石である。
此処は宿外れ(境界地)だから、
「賽の神」(=道祖神)の可能性があるかもしれぬ。
正面へ廻ってみよう。
B15020203
やっぱり怪しい。
少々、移動の形跡はあるものの、
最近になって、わざわざ運んできた石ではなさそうだ。
このように宿の境界地では、たとえ漬物石であっても、
路傍の石には注意を払うべきなのだ。
B15020204
一寸、寂寥感漂う街並みになったのも一興哉。
そうか、時ならぬ「怪石」のせいで、「裏宿」町名変更の一件は、
飛んでしまったので、次回へ送らせて頂こう。
ご容赦を…
(捨身 Canon G1X)

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2015年2月 2日 (月)

青梅の観音へ参る(29)

B15020101

日を変えて、青梅宿から「裏宿」へ足を踏み入れる。
今回は、宿北側の路地を辿ってみることにした。
JR青梅駅を出て、直ぐ右へ入る、宿裏の小径だ。
青梅宿の内は、上掲のように「本町」「上町」「仲町」と、
典型的な宿の字名が、そのまま残っているから、
いろいろと類推が出来て愉しい。
B15020102
今までの経験則から鑑みて、宿の裏側は、
実に、ワンダーランドである。
必ず、怪しげなスポットに往き合う。
もとより、青梅宿も例に漏れない。
民家の間に忘れ去れたように鎮座する、楠の古木を見つけた。
傍らの小家屋を隔てれば、もう青梅線の線路際なのだ。
少なくとも、樹齢四百年は下らないだろう。
宿の変遷をずっと観続けてきたのかもしれぬ。
B15020103
こういった材木店も「杣保」(そまのほう)の歴史を、
受け継いでいると想えば、趣きも湧く。
B15020104
「稲葉家住宅」の裏側を観る。先程、現在の本宅前を過ぎた。
当地もやはり、空き地が目立つようになった。
そうそう、青梅宿界隈は往時の町名がよく保存されているので、
聞いてみたら、一時は青梅町、三桁番地といったふうに、
統一されたことがあったらしい。ところが、全く不評で、
再び、元の町名に戻されたのだそうだ。
これは、近頃でも稀有な、自治体の「英断」と謂うべきだろう。
一連の騒ぎで「裏宿」も翻弄された。
その経緯は明晩に続けよう。
(捨身 Canon G1X) 

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2015年2月 1日 (日)

青梅の観音へ参る(28)

B15013101

宿の西端まで来た。
お約束通り、道はクランクし「筋替」を呈している。
此処には、天正十八年(1590)家康の関東打ち入りに際して、
設置された、八王子代官所の支所「森下陣屋」が在った。
関所も兼ねており、「筋替」の手前に木戸と柵が構えられ、
街道は、陣屋の敷地の中を突っ切っていたはずである。
その後、江戸中期の延享年間(1744~48)に、
陣屋と関所は廃止され、屋敷神だった「熊野社」だけが残った。
初代の代官の一人に、鈴木孫右衛門と云う人がいたので、
彼が熊野の関係者だった可能性もあるだろう。
B15013102
現状は、熊野社の境内と小公園になっているが、
往時は、約1920坪の広大な敷地であったようだ。
関所抜けを防ぐために、宿北側の山裾から、多摩川縁に至るまで、
防備を固めていたのだろう。
陣屋が置かれた当初(天正年間)に植えられたと想われる、
カシの巨木が、宿の結界を示すランドマーク(榜示)の如く、
そそり立っていた。
そうか、現在の青梅宿は、少なくとも、家康入府直後の、
天正期(1590~93)まで遡れるわけで、ある意味、近世以前の、
中世世界の宿の境域をよく伝えているのではないか。
お薦め出来る探索地には違いない。
B15013103
陣屋の手前に、宿内最大の寺院「金剛寺」(真言宗豊山派)がある。
将門の時代、承平年間(931~38)に創建と云う。
もとより、三田一族も、厚く保護してきた。
青梅の地名の由来となった「将門誓いの梅」を観ておこうか。
さて、青梅宿はここで尽きるけれど、
宿の外、あの七兵衛の在所「裏宿」へ、
足を踏み入れてみたくなった。
(捨身 Canon G1X)

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