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2015年3月の記事

2015年3月31日 (火)

足柄道を辿る(17)

B15033001

本丸(一の曲輪)の中程、鬱蒼と照葉樹が茂った一角に、
「玉手ヶ池」と呼ばれる湧水がある。
現在は殆ど枯れているが、
かつては、滾々と湧き出ていたらしい。
これほど高い頂きで、突如、豊かな泉に出逢う。
是まさに、足柄明神が示し給うた、
不可思議な功徳に他ならず…
中世の旅人には、そう想えたに違いない。
おそらく、古代から、この湧水の存在は知られており、
峠越えのルートが設定されたのではあるまいか。
麓の人々にとっても、雨乞いの聖地だったようだ。
B15033002
足柄城は、理想的な「水の手」を取り込んで築城された。
水の恵みは、もとより、城が独占することはなく、
路傍まで引かれ、往還する人馬の渇きを癒したのだろう。
仮に事が起れば、直ちに、道も、水も押さえられるのだ。
B15033003
足柄峠の両側の町で、こんなイベントをやっている。
次の「九月第二日曜日」の「領地争奪綱引き合戦」まで、
この本丸は「相模之国南足柄領」ってわけか。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月30日 (月)

足柄道を辿る(16)

B15032903

「山の神曲輪」の東側裾(空堀の底)を県道(古道と重なる)が、
走っており、反対側(左手)の曲輪が本丸跡である。
現在、両曲輪の間に、道を跨いで橋が架かっている。
その橋上より、登って来た小田原側を振り返ったところ。
B15032705
こちらは御殿場側だ。
右手の階段を上れば、本丸跡へ入れる。
B15032904
本丸跡は結構な広さがある。
足柄城が築かれたのは、北条氏綱の代(天文初年=1530年代頃)
と推定される。当時、足柄道は、既に箱根の湯坂道へ、
東海道本道の地位を譲り、専ら裏街道か、
甲斐から相模への、最短経路として使われていた。
小田原北条氏と甲斐武田氏は、対立と和睦を繰り返しており、
氏康の代に至って、足柄城は大幅に改修、強化されたようだ。
天正年間(1573~90)に入って、武田氏が滅ぶと、
この城は豊臣方に対する、最前線の一翼を担うようになり、
一時は、全山要塞と化していたとも云われる。
しかし、天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めでは、
一戦も交えることなく、あっけなく明け渡されてしまう。
B15032905
石碑の下で、遙か御殿場側を望む。
此処は、有名な富士の絶景スポットなのだが、
小雪が舞い出す生憎の天候で、諦めざるを得なかった。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月29日 (日)

足柄道を辿る(15)

B15032701

「山の神曲輪」(やまのかみくるわ)は、足柄明神故地の、
「明神曲輪」より西へ続く、尾根上にある。
内部へ分け入ると、各所に、何段にも別れた平場と、
土塁、空堀跡が走っているのがよく判る。
B15032702
足柄城には、主な曲輪が七つあったと云う。
これらの曲輪は、峠の尾根に連なる頂を削平して築かれ、
其々「土橋」(通路)で連絡し合い、土塁、空堀を廻らす。
古道は、各曲輪の間を縫うように通っており、
常時、見下され、監視出来る構造になっているわけだ。
一旦、事が起これば、足柄道を遮断するのは容易であろう。
B15032703
各地の山城跡の例に漏れず、当城も、夏は藪の中のはずだ。
晩秋から早春(ちょうど今頃の季節だ)が山城探索の好機である。
空堀跡を挟んだ、向こうの平場に、石祠を見つけた。
往ってみよう。
B15032704
曲輪の名称の由来となった「山の神」の祠と伝える。
中世の山城が、街道を取り込み、地主神を取り込んで、
縄張り(筆者は結界と看做している)される、典型と謂っていい。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月28日 (土)

足柄道を辿る(14)

B15032602

足柄峠上の「聖天堂」が、どうしても気になった。
一寸、羂索(検索より、いい字面なので)などしてみたら、
この堂の縁日が四月二十日で、つい先頃まで、
「青空賭博」が行われていたと云う記事を見つけた。
「首無しの地蔵」から、近世後期、関東各地の天領で流行った、
「博打開帳」のことを想起したのだが、意外な繋がりであった。
やはり「匂い」は残っていたわけだ。
つまり「峠と博打ち」のことである。
寓居近くの多摩丘陵の村々でも、かつて、大いに流行り、
決まって「峠」で「開帳」されたと聞いた。
山中の、小堂か小社の前庭が、その現場だったのだろうか。
B15032604
「峠」は境界地であると謂ってきた。
現世に於いては「無主」の庭であり、
(相模、駿河両国の国境は、ともに坂下までだった)
峠の神、或いは、坂の神などの、
仏神のみが支配する領域=異界とも謂える。
今少し論を進めれば、
「市庭」にも共通する「アジール」とは謂えまいか。
もとより、近世の博徒と雖も、
中世世界の「博打ち」との関りは浅からぬものがある。
仏神の支配する庭(勿論、俗世の捕吏の手も届き難い)こそ、
賭場に相応しいのであった。
それにしても「聖天」と「博打ち」は、どう結び付くのか。
現世利生、商売繁盛、縁結びと云われれば、そうなのだが、
「峠」の「坂下」(本)に集った遊女たちと「聖天」の相性は、
悪くないと想うから、関連性が無いとは謂い切れないのだが。
B15032603
さて「聖天堂」より道を隔てた「足柄関之跡」の脇に、
足柄城跡への登り口がある。右手の石垣のところだ。
足を踏み入れてみよう。
堂前の金太郎像は、ご愛嬌って感じかな。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月27日 (金)

足柄道を辿る(13)

B15032503

「足柄之関跡」裏側の路傍に「首供養塚」と云うのあった。

案内板には、関所破りをした者を処刑し、首を晒したとある。

「関所破り」だから、近世のことだろうか。

中世世界でも、峠、坂、河原、浜などの境界地は、

屡、刑場となり、梟首が行われるのが習いであった。

京都の六条河原、鎌倉の龍口(たつのくち)

化粧坂上(けわいざか)などが挙げられよう。

足柄峠の「坂上」が、かつて、そうであったとしても、

全く不思議ではない。左は、室町期の宝篋印塔、

(塔身と相輪は後補のようだ)右は、近世の地蔵だろう。

ついでながら、地蔵の首が無いのは、博打に負けたかたに、

地蔵の首を持って来るのが流行ったためと云う。

村境なんかの地蔵で、首が欠けたのをよく観かけるし、

賭場も、峠の山中のような境界地で、

密かに開かれるケースが多かったらしい。

役人や捕吏の数が少なかった「天領」「旗本領」の農村では、

御法度の「開帳」が盛況だったのだ。

B15032601

直ぐ近くの、一里塚跡を過ぎると、

B15032504

「足柄山聖天堂」前に出た。

この辺りは峠の尾根上なのだが、平場が続き、茶店もある。

今はシーズンオフなので、休業中だった。

何故、突如此処に「聖天」(=大聖歓喜天)が祀られているのか、

よく判らない。足柄山の信仰世界の「謎」の一つだろうか。

何らかの意味付けは、あるはずで、要研究であろう。

(捨身 Canon G1X)

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2015年3月26日 (木)

足柄道を辿る(12)

B15032501

足柄道に「関」(関門)が構えられたのは、
平安前期の昌泰二年(899)のことだと云う。
当時、坂東諸国では「僦馬の党」(しゅうばのとう)と呼ぶ、
騎馬で、東山、東海道を往来する官物を運ぶ駄馬を襲う、
集団が横行していた。
朝廷は、足柄、碓氷の両峠に「関」を設置し、
「偵邏」(ていら=警備兵)を常駐させ、防備を固めた。
同時に「関」の両側の国司へ命じて、通行者に、
「過所」(かしょ=通行許可書)を発行させている。
その古代の「足柄関」が何処に在ったか判らない。
当地では、此処がそうだったと伝えているのだが、
各地の例より、推し量るに、
通常は、所謂「坂本」(さかもと=峠の登り口)に置かれたようだ。
足柄道では、関本宿(古代は文字通り、坂本駅)を出た辺りが、
相応しいと謂えるのではないか。
実際、近世の足柄関所跡は「地蔵堂」の手前、
矢倉沢の集落に在る。
B15032502
古代の「足柄関」が、いつ廃止されたかも不明なのだが、
一寸後の更級日記や、源平盛衰記などの記述から、
中世の中頃までは、何らかの形で存続していた可能性がある。
ひょっとしたら、場所も変転したかもしれない。
戦国期、此処は「足柄城」の中だったわけで、
「関銭」(通行税)を徴収する「関」が在ったとしても、
不思議ではないのだ。
一遍聖絵に、中世世界の「関」が出てくる。
B15032505
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月25日 (水)

足柄道を辿る(11)

B15032401

尾根筋の古道を歩いていると、周囲の植生とは、
明らかに異なった、巨樹たちを観かける。
多くは、人が植えたのだろう。
足柄明神故地前で見つけた松の木。
B15032402
廻りの杉が邪魔しているが、こちらは楠だ。
峠、坂などの境界地では、これらの巨樹が、巨石同様、
道祖神、賽の神の役割を果しており、
旅人の「手向け」の対象であった。
元々は自然のものだったかもしれないが、枯れたり、
雷に打たれたりするので、人の手が加わって、植え替えられ、
代々を重ねるようになったのだと想う。
B15032403
そうそう、謂い忘れるところだったが、既に我々は、
中世の山城「足柄城」の中に居るのである。
古道をその儘辿って往くと、先程の足柄明神故地の付近で、
「明神曲輪」(みょうじんくるわ)と呼ばれる、
城の最も小田原側(東側)の「搦め手口」に入り込む。
足柄峠の尾根全体が、古道を抱え込む形で、
山城に仕立てられているわけだ。
これからも、山城遺構に出逢うだろうが、その都度触れるとしよう。
B15032404
さらに尾根道を進み、こんな場所に出た。
「足柄之関跡」のようだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月24日 (火)

足柄道を辿る(10)

B15032301

古道は尾根筋へ出たようだ。
一寸した平場になっており、眺望も開ける。
B15032302
路傍に石祠があった。
B15032303
「峠の神」或いは「坂の神」と呼ばれた「足柄明神」が、
中世世界の一時期まで、祀られていた故地である。
(後に、麓の関本宿の峠側出口へ移された。
 現地は、既に探索済みなので、後述しよう)
古代より、峠を越える旅人が、
必ず「手向け」を行った場所であったろう。
現在の祠は、明治初年に住民有志の手で建立されたとある。
神仏分離の影響で、地元古来の地主神が、
顧みられなくなったのを、憂いた末の行動だったと云う。
「足柄明神」についての、最古の記述は、
よく知られた「古事記」に出てくるものだ。
…東征を終えたヤマトタケルが、足柄山を超える際、
 麓の坂下で、食事をとった。すると「峠の神」が、
 白鹿の姿で現れた。これを見て、ヤマトタケルは、
 食べ残しの野蒜の端で鹿を打つと、その目に当って、
 打ち殺されてしまった。
 ヤマトタケルは坂上へ登り、峠に立って、三度嘆息し、
 「吾妻はや」(我が妻よ)と叫んだ。
 これらの国々を「吾妻」(あづま)と呼ぶ由縁であると…
B15032304
社殿は移されても、此処が「坂上」であり、
「勝地」であることは変わらない。
人々の「手向け」の習いは続いたと想う。
登りし方を望む。
山並みの向こう、遙かに相模の平野、
そして右手、谷底の集落が出発した「地蔵堂」だろうか。
かなり登ったものだ。
B15032305
県道に戻ると、県境を示す標識が立っていた。
これから尾根上を進む。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月23日 (月)

足柄道を辿る(9)

B15032201

尾根筋へ近づいているようだ。
古道が緩やかになってきた。
矢庭に立派な石畳が現れる。
最近の復元に拠るものだろう。
因みに、足柄道に石畳が敷かれたと云う記録は、
古代、中世を通じても残っていない。
敷設された可能性があるのみだ。
箱根湯坂道では、戦国期に小田原北条氏が、
路面の泥濘化防止の為、近在の百姓を使役して、
笹を刈り敷き詰めさせたことはあったらしい。
B15032202
路傍に置き去られたように鎮座する巨石。
よく観ると、上辺に楔が打ち込まれ、切られた跡があった。
かつて、石材を求めて、足柄山まで分け入り、
手当たり次第、採石が行われたのであろうか。
「小田原一夜城」(石垣山)の城普請も想起されよう。
B15032203
もう一寸登れば、眺望が得られるはずだ。
B15032204
ふと足元を観遣るに石仏あり。
風化が著しくて、像容は定かでないが、
微かに、合掌しているようにも想えた。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月22日 (日)

足柄道を辿る(8)

B15032101

いきなり、荒れた感じの急登だ。
馬上の旅なら、下馬して、手綱を引いて登ったのだろう。
B15032102
杉の植林の中を進む。
そうか、今時分は「最盛期」だったな。
やれやれ、帰ったら、体中を叩かねばなるまいて。
B15032103
石がごろごろした所に出た。
石敷きの名残だろうか。
踏み締められた路面で、古道らしくなってきた。
B15032104
再び、県道と合流。
高度も結構稼いだように観える。
その間、県道は何度もカーブを繰り返して登ってくる。
古道のほうが、勾配はきついけど、直登に近いから、
ショートカットなわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月21日 (土)

足柄道を辿る(7)

B15032001

谷筋に沿って、県道を登って往く。
この辺りは、暫く古道の道筋と重なる。
斜面には、茶畑が広がっていた。
足柄山麓は「足柄茶」の本場である。
関東大震災後の復興事業の一環として栽培が始まったそうだ。
今度見つけたら、買ってみよう。
当地の風土が味わえるかもしれぬ。
尾根の向こうに観える頂きは「矢倉岳」だ。
B15032002
谷奥に棚田があった。
こういう田圃は、結構古いんじゃないかと想う。
棚田は、自然の沢水と高低差で、灌漑が容易なので、
開作が中世世界まで遡ることが多いのだ。
B15032003
此処まで登って、来し方を一寸振り返る。
右手、植林下のスロープが、古道と県道の合流点だ。
「矢倉岳」の全容がよく観えた。
B15032004
再び、県道から古道が別れる。
因みに左側は林道だ。
古道のほうは、右手の急斜面を登らねばならない。
(斜面 Canon G1X)

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2015年3月20日 (金)

足柄道を辿る(6)

B15031901

「地蔵堂」は足柄道の境界地に建ち、
此処より上の峠には、集落は無い。
箱根山と同様、足柄峠も「異界」なのだ。
南北朝期の地蔵菩薩立像と厨子(室町後期)が伝世し、
堂裏の収蔵庫に納められている。
B15031902
中世の旅人も、この堂前で一息入れ、身支度を整えて、
これから踏み入る「異界」に待ち受けるであろう、
様々な危険から、守ってくれるように、祈ったのだろうか。
B15031903
傍らに道祖神が祀られていた。
武蔵には少ない「双体道祖神」である。
相模西部の文化圏の違いが窺えて興味深い。
B15031904
そのまま地蔵堂裏を進むと、足柄道が現れる。
舗装されているが、かつての古道だ。
右下を県道78号線が並走する。
登るしかあるまい。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月19日 (木)

足柄道を辿る(5)

B15031801
伊豆箱根鉄道・大雄山駅前から、足柄峠方面の路線バスが、
出ているが、峠上へ至るバスは週末の朝夕のみで、
しかも冬季は、運休ときている。
通常は、峠の登り口「地蔵堂」が終点なのだ。
差し当たって、終点まで乗り、あとは徒歩に頼るしかない。
バスは暫し、関本宿内の県道78号線を進む。
中近世の関本宿は「上、仲、下」に分かれ、
比較的大きな宿だったと想われる。
古代へ遡れば「坂本駅」(さかもとのえき)と呼ばれ、
延喜式にも、他の駅より多い、駅馬二十二頭、
伝馬五頭を置くとある通り、「大駅」であったようだ。
B15031802
現在の県道は、ほぼ古道に沿い、
各所で重なったり、交差したりしている。
山道に入って「矢倉岳」も間近に迫ってきた。
B15031803
「静岡県境まで6.6㎞」の表示。
足柄峠は、もとより、相模国と駿河国の境目であり、
同時に「坂東」(謂うまでもなく、足柄峠の坂の東側の意味だ)
への入り口でもあるわけだ。
鎌倉期に箱根山の「湯坂道」が拓かれるまでは、
諸道の中で、最重要と云ってもいい幹線道路だった。
B15031804
「地蔵堂」に着いた。
ここから、いよいよ「異界」へ足を踏み入れて往く。
(捨身 Canon G1X) 

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2015年3月18日 (水)

足柄道を辿る(4)

B15031701

いつもながら、末枯れた時宗寺の風情だ。
定石と謂ってもいいだろう。
B15031702
東国の多くの時宗寺の例に漏れず、この寺も、一遍の後続者、
他阿弥陀仏・真教が永仁六年(1298)に開いたと伝わる。
鎌倉初期作の阿弥陀如来坐像が本尊だそうだ。
B15031703
墓域から望む、箱根の外輪山「明神ヶ岳」
大雄山・最乗寺は、その中腹に在った。
やはり、関本宿を直ぐ見下しているから「関本山」であろうな。
江戸後期以降、道了信仰が盛んになると、
関本宿は、専ら最乗寺の門前町として賑わうようになる。
B15031704
視点をさらに北西へ移すと、特徴的な頂が観える。
「矢倉岳」(870m)だ。この山の神が翁の姿で示現し、
最乗寺開山の際に、了庵慧明禅師を援けたわけだ。
足柄道は「関本山」と「矢倉岳」の間の谷筋を登って往く。
さぁて、「中世の旅人」の気分になって、
足柄峠を目指すとしようか。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月17日 (火)

足柄道を辿る(3)

B15031601

積み重ねられた石塔類。
礎石のようなのもある。
B15031602
雨中宿裏に垣間観る花か。
こうやって、各地の宿跡を探索して来ると、
一度棲んみたいと謂う妄想も浮かんでくる。
最早、往時は失われて久しいのだが、
イメージだけが先走るのを、抑えられないでいるわけだ。
B15031603
高札風の案内板を彼方此方で見つけた。
眼前の遺物は消え去っても、今も住み続ける人々は居る。
B15031604
宿の東側の果てまでやって来たようだ。
「龍福寺」と云う時宗寺の門前で、足柄道は大きくカーブし、
酒匂川の渡河点へ向かう。
おそらく、この辺りに、お約束通り、
「筋替え」(クランク)があったと想われる。
「管領」じゃなかった、「慣例」に由って、
時宗寺は外せないので、一寸足を踏み入れてみようか。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月16日 (月)

足柄道を辿る(2)

B15031501

宿の裏側へ入って、テニスコート脇に表示を見つける。
ブロック塀と生垣に挟まれた狭い路地を進むと、
B15031502
先程の用水が流れ、傍らに五輪塔の残欠が置いてあった。
「お君塚」(おきみづか)だ。
B15031503
「火輪」と「風輪」「空輪」の部分だけである。
小さな五輪塔だが、中世後期のものと観た。
関本宿に集住した遊女(あそびめ)の墓と伝えるが、
「お君」とは「遊君」(ゆうくん=遊女の別称)からきた呼び名だろう。
中世世界の橋本宿は、美濃の青墓宿や諸国の宿々のように、
遊女で賑わったと云われる。
鎌倉中期の紀行文「海道記」はこう記す。
…関本の宿を過ぐれば、宅を双ぶる住民は人を宿して、
 主とし、窓にうたふ君女(遊君)は客を留めて夫とす…
B15031504
用水の向こう側は屋敷墓になっており、
古い墓石が積み重ねられていた。
無縫塔(手前 むほうとう=僧侶の墓石)も見つけたので、
ひょっとしたら、寺院跡かもしれない。
B15031505
「お君塚」の背後に、護るが如く、
楠の古木が三本並んでいたのが、意味深だった。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月15日 (日)

足柄道を辿る(1)

B15031401

大雄山・最乗寺を探索した後、すぐ麓を通る「足柄道」と、
「関本宿」が気になった。
日をあらてめて、辿ってみることにした。
小田急新松田駅発、関本行きの路線バスが、
酒匂川に架かる橋へ差し掛かった時に観える「明神ヶ岳」だ。
箱根山の北東側の外輪山で、標高は千を超える。
正面の中腹辺りが最乗寺だと想う。
ちょうど真西から「関本宿」を見下す山だから、
「関本山」なのである。
箱根山の上は雪のようだ。
B15031402
伊豆箱根鉄道大雄山駅近くに「関本宿」は在った。
古代、中世、近世を通じて栄え、存続した宿だ。
今は県道78号線となった「足柄道」
一寸観ただけでは、かつての宿の痕跡は殆ど見当たらない。
B15031403
「お君塚」と呼ばれる、中世の遊女の墓があると聞いた。
道標に誘われる儘に、宿の裏側へ足を踏み入れる。
B15031404
住宅地の間に用水を見つけた。
宿の生活を支えるのみならず、「結界」を示すこともあるので、
注意を払う必要がある。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月14日 (土)

足柄山中の天狗棲む寺へ(13)

B15031203

奥之院を究めたので、山を下りるとしようか。
下りは無理せず、林道を辿ることにする。
折返す急な小坂から、多宝塔の屋根を望む。
もとより、密教寺院に多い塔だ。禅寺では珍しい。
通常は、大日如来が祀られるが、
この塔には、本来の「多宝如来」が祀ってあるそうだ。
B15031301
斜面を下りながら、幾つかの堂舎に立ち寄る。
不動堂だ。
「清滝不動尊」と呼ぶ。
「結界橋」の下を流れる小河川は、その滝から生じるのだ。
ついでながら、最乗寺は、足柄山塊の「明神ヶ岳」中腹に位置する。
寺が開かれるに及んで「大雄山」と号するようになったが、
本来は「足柄道」の坂下にある「関本宿」上の山、
「関本山」と云うのであった。
B15031302
元々、この山は水に乏しかった。
開山にあたって、了庵慧明禅師を助けた地主神三翁の一人、
「箱根権現」は、山中のあらん限りの水を授けようと託宣した。
さて、麓の「関本宿」を一寸探索してみたくなった。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月13日 (金)

足柄山中の天狗棲む寺へ(12)

B15031201

人(山伏)が、生きながら「天狗」と化し(天狗道へ堕し)
さらに「観音」の「応化身」(天上界)へ上昇する。
同様な霊験譚が、当地の「道了大権現」のみならず、
「秋葉権現」にも見出されるわけだが、
一体これを、どう解釈したらいいのか。
中世世界では「天狗」を祀ることは、忌み畏れられていた。
秘密の呪詛の類として、外法(外道)とされ、禁忌でもあったろう。
でも、その「法力」の「強力さ」が故に、
やがて人々を惹きつけるに至り、現世利益を望む者は、
積極的に「天狗」を祀るようになって往く。
「法力」が善き方へ向かえば、即ち「観音力」と解され、
「観音」の「応化身」と変じても、不思議ではないのである。
やはり、中世後期の何処かで、
ある種の価値変換が起ったのかもしれぬ。
B15031101
「道了大権現」(大薩埵)の尊容を掲げてみた。
「お羽根落ちの道了さま」と呼ばれるものだろう。
あらためて観ると、
「飯綱権現」にも、酷似していることに驚かされる。
B15031202
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月10日 (火)

足柄山中の天狗棲む寺へ(11)

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もう一寸だ。
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「冠木門」と小堂が観えて来た。
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「奥之院」に至る。
おっと、左右の提灯に「十一面観世音」とある。
そうか「道了大権現」の「本地」とは、このことなのか。
明治三十六年刊「妙覚道了大薩埵御縁起」はこう記す。
…明治維新に際し「両部」(仏神混淆と修験道)が禁止され、
 「権現」号を改め「大薩埵」(だいさった)とした。
 即ち「天部菩薩」の位へ着かれたので、
 尊像の両翼が肩先から落ちると云う奇瑞が起った。
 人々は「お羽根落ちの道了さま」と呼んで尊崇した。
 最乗寺でも、この御姿を印刻して授与したので、
 大事に護持する者が多い…
こうして「道了大権現」は「観音」の「応化身」となったが、
「権現」を称したのも、戦国期以降のようだし、
もとより、この話自体、新しいものだ。
でも、既に「観音」と結び付けられるヒントはあったと想われる。
例えば、静岡・浜松の「秋葉権現」は、明治の神仏分離で、
現状の「秋葉神社」と別寺の「可睡斎」に別れるまで、
最乗寺と同様、曹洞宗が管掌していた。
しかも尊容は「道了大権現」と酷似した、剣と羂索を持ち、
白狐に乗る烏天狗である。「本地」も「観音」とされ、
抑々元を辿れば「三尺坊」と云う山伏だったのだ。
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(捨身 Canon G1X)

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足柄山中の天狗棲む寺へ(10)

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二つ目の踊り場で、右に折れると、ついに最後の石段が現れた。
これが迫力十分なのだ。一気に、三百五十余段と云う。
一寸、眩暈に襲われ、左右の「天狗たち」が、
「ドヤ顔」をしているように観えたのは、決して誇張ではなかろう。
やれやれ…登るしかないようだ。
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石段に取り付く。
斜度もある。
急がず、かと謂って、
グズグズはせず(後述のようなことに遭わない為にも)
足下を確かめ、しっかりと往こう。
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何処かで「道了」が此方を窺っているのだろうか。
仏神、物の怪の類から「見られる」と云うこと、
中世世界では、これほど怖ろしいことはなかった。
つまり、一方的に「結縁」され兼ねないことにほかならず、
もとより、目出度き「仏縁」ならいいが、
「悪縁」ならば「付き纏われて」厄介この上ないのだ。
仮に「見られても」「見返して」「相見る」ことは、
「結縁」が完了してしまうから、禁忌である。
やはり、より強力な仏神(=より祟りが強いことでもある)
に縋り、その「結界」の内に入って、「無縁」の状態に身を置き、
「悪縁」を断ってもらうしかないわけだ。
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漸く、ここまで登ってきた。
結構な高度感だ。
(捨身 Canon G1X) 

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2015年3月 9日 (月)

足柄山中の天狗棲む寺へ(9)

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本当の「結界」の内へ入ったと謂えるのだろうか。

何か「空気」が一変したような感じだ。

最初の石段を登って、踊り場に着く。

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次の石段を登りながら、振り返ったところ。

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二つ目の踊り場で、参道は大きく折れ曲がり…

おっと、道の真中に巨大な「置石」(おきいし)がある。

各地の霊験所の中で、こういうのを観たのは初めてだ。

本来は「門」ではなく、この石で「結界」を示していたのだろう。

鎌倉の切通しなんかで、通行を障害する「置石」が観られるが、

あれは「軍事的」な意味合いで語られることが多い。

筆者は、その観方に否定的だ。

つまり「石」の霊力に拠って、境界地の道を護り「結界」を示す。

「置石」即ち「賽の神」「道祖神」ではないのか。

中世世界の怨霊や疫病神は、虚空を飛んで来るのではなく、

必ず「道」を通ってやって来るので、まず、塞ぐ必要があるのだ。

敵の軍勢はその次で、「軍事」は付随する目的に過ぎない。

翻って、この大雄山・最乗寺奥之院の場合はどうなのか。

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さらに近づいてみた。

大きい。1mX3mぐらいだろうか。

「結界」は「境界」であり、これはいい。

では、何を防ごうとしたのか。もとより人ではない。

怨霊、物の怪、厄病神、そう、生きながら天狗と化して、

「奥之院」に鎮まる「道了大権現」であろう。

(九尾狐を封じ込めた「殺生石」も想起させよう)

不用意に、寺や斯界の人々を戒めるために、

「小田原北条記」にある如く、暴れ出ては困るのだ。

「石」の大きさから、「道了」が如何に怖れられていたか、

実感を伴って、想い遣られるわけだ。

(捨身 Canon G1X)

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2015年3月 8日 (日)

足柄山中の天狗棲む寺へ(8)

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明治三十六年刊行の「妙覚道了大薩埵御縁起」は、
現在、国会図書館のデーターベースに在り、ダウンロードして、
閲覧することが出来る。
最盛期を迎えた「道了信仰」に当て込んだ参詣者向けの、
小ハンドブックと云うべきもので、近隣の旅館や土産物の、
広告なんかも載っていて、往時の空気がよく伝わってくる史料だ。
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幾つかの霊験譚が引用されているが、
中でも興味深いのは、元和年間(1615~24)成立の、
「北条五代記」=「小田原北条記」の記述であろうか。
筆者所持の同本の原典から、紹介してみる。
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…永禄三年(1560)八月、北条氏康は、国境の足柄城修築を、
 企て、足柄峠一帯を巡視したが、その際、麓の関本宿に、
 立ち寄り、大雄山・最乗寺を参詣した。
 この寺の開山・了庵和尚は、曹洞宗の開祖・道元より、
 五代の法孫である。関八州、奥州に至るまで全ての末寺が、
 輪番で住持となり、七堂伽藍が整備された。
 了庵和尚の弟子に「道流」(道了の誤りか)と云う者がいた。
 この男は我が強く、悪賢くて、大力であったが、
 「生きながら天狗になり、当山を守護しよう」と願をかけた。
 日々修行を重ね、果たして天狗となってこの山に棲んだ。
 寺僧が殊更に言上するに、
 「今も、悪法を説く住持が居れば、きっと示現し、
  妨げを為すのは必定」であると。
 氏康の供の者たちは、
 「今の世に、このような不思議なことがあろうか。
  その天狗と云うのも、獣の類ではないか」などと囁き合った。
 すると俄かに大風が吹き起って、木々をなぎ倒し、
 堂舎の門戸を激しく叩き揺さ振り、落雷があった。
 「あわや天狗に浚われるか」と驚き怖れない者は無かった。
 氏康も「晴れた空がたちまちこうなるのは、
 まこと、天狗の仕業に相違ない」と、
 爾後、当山を尊崇し、伽藍を再興したと云うことだ…
「山伏」出身の「道了」に対する、ある意味、如何にも中世的な、
忌憚の無い観方も窺えて、面白いと想う。
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さて、大雄山・最乗寺の最深部「奥之院」へ向かおう。
さらに「冠木門」が構えられ、厳重な「結界」を感じる。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月 7日 (土)

足柄山中の天狗棲む寺へ(7)

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「結界門」をくぐり、右手へ折れて、石段を登る。
もとより、これは序の口に過ぎない。
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壇上の「御真殿」元の「道了宮」だ。
「道了大権現」を本尊に祀る。
大雄山・最乗寺の、実質上の本堂と謂っていい。
「御供式」はこの堂内で行われるのだろう。
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最乗寺開山の経緯については、明治三十六年刊行の、
「妙覚道了大薩埵御縁起」によるところが多いようだ。
地元の伝承類を纏め、小史に仕立てたものだ。
それに拠ると、抑々「道了」は、足柄山中で禅定中の、
了庵慧明禅師前に、忽然と現れた「小坊主」であったと云う。
「道了」と呼ぶのも、禅師が名付けたからとも。
また、三人の翁が地主神の「飯沢神」「矢倉沢神」「箱根権現」
と名乗って、次々と示現、最乗寺の造営を助けたと記す。
いずれにしても、各地の霊験所の縁起譚を集め、
脚色したような内容になっているのは、止むを得まい。
明治のちょうどその頃、「道了信仰」は最盛期を迎え、
訪れる講中の人々で、門前の賑わいは大したものだった。
現在の伊豆箱根鉄道・大雄山線が敷かれた由縁でもある。
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講中が奉納したと想われる「道了大権現」尊像。
「天狗像」は境内の其処彼処に観られるが、容貌は様々だ。
これは丸顔系、一寸愛嬌があるな。
「道了大権現」は、伝承の中で「成長」と「習合」を繰り返し、
やがて、真の「仏」になって往く。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月 6日 (金)

足柄山中の天狗棲む寺へ(6)

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曹洞宗の禅寺、最乗寺としての「結界」は、既に参道の起点、

仁王門のところで、始まっていると考えられるから、

此処で重ねて、「結界」が張られるのは、

かなり異例な印象を受ける。
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斯界と異界を繋ぐ橋は、中央の「御供橋」(ごくうばし)と、
左右の「圓通橋」に分かたれ、参拝者は左右の橋を利用する。
中央は、神の通路であると同時に、
「御供式」と呼ぶ、特別な宗教儀礼の為に使われる。
即ち、開山了庵慧明禅師遷化の翌日、二十八日をもって、
道了尊者が生きながら「天狗」に変じ、山中へ身を隠した日、
「命日」と見做して、正月、五月、九月の同日に大祭を行う。
其の深更の浄闇を選び、一山の僧、挙げて潔斎後、
浄衣、白麻布の覆面姿、樒を口に含んで、行列を組み、
「御供橋」を渡り、「結界門」を通って「御供」を、
「大権現」の尊前へ捧げる。
「御供」の内容は、小豆糯米の赤飯だそうだ。
全ての作法は曹洞宗に無い、密教様式であると云う。
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何か、高野山の奥ノ院を彷彿とさせる儀式だが、
やはり「先達」を務めた山伏たちが持ち込んだものだろう。
だとすれば、そう古くは遡れず、どんなに早くとも戦国期、
せいぜい江戸中期以降と謂った感じか。
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「結界門」の両脇に立つ「天狗像」だ。
右はお馴染みの「鼻高天狗」 左は中世世界では主流だった、
トラディショナルな「烏天狗」である。
最乗寺で授与している「道了尊御姿」もそうなっているので、
後掲しよう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月 5日 (木)

足柄山中の天狗棲む寺へ(5)

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大雄山・最乗寺の案内図を観る。
手前右方向より、谷川(大雄川)沿いに杉並木の中の参道を進み、
中央の「瑠璃門」を通って、七堂伽藍が建ち並ぶ、寺の主要部に、
入ったわけだ。普通の曹洞宗寺院なら、上図で全てだろう。
だが、最乗寺の場合、これだけでは終わらないのだ。
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案内図の左側の続きへ目を移そう。
七堂伽藍を抜けると、多宝塔、鐘楼があり、
小河川が流れ、橋と門が観える。
「結界門」と記される、意味深な門が構えられている。
まさに、其処からが、大雄山最乗寺の核心部であろう。
門を出て右手、石段を登った斜面上に「御真殿」とあるのが、
「妙覚道了大権現」を祀った旧「道了宮」だ。
さらに登れば、寺域の最深部で、最高点にもあたる、
「奥の院」へ至る。
こうやって観ると、最乗寺は一般的な曹洞宗の禅寺の、
「表の顔」と、道了大権現を祀る「裏の顔」の、
特異な二重構造になっているのが判る。
同時に、この寺の信仰形態を端的に示しているとも謂ってよい。
どっちが主であるかと云えば、難しいが、
やはり「裏の顔」のほうではないだろうか。
さて、覚悟を決めて、探索を進める。
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文久三年(1863)の建立と云うから、比較的新しい多宝塔だ。
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これが「結界門」か。
左右の橋を「圓通橋」中央を「御供橋」(ごくうばし)と呼ぶ。
由縁については、一寸触れねばなるまい。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月 4日 (水)

足柄山中の天狗棲む寺へ(4)

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生きながら「天狗」に変じ、山中へ身を隠した「相模坊道了」は、
大雄山・最乗寺の伽藍を守護する神となった。
「道了尊者」或いは「妙覚道了大権現」と呼ぶ。
(明治の神仏分離以降は「道了大薩埵」=だいさった)
彼を祀った「道了宮」(現・御真殿)が置かれ、江戸後期には、
現世利益の霊験所として人気を集めるに至る。
江戸出開帳も四度に及び、幾つもの講が組織された。
現在でも、奉納額を観ることが出来る。
鳶職、消防関係の講中が多いようだ。
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「先達」の名前も刻まれるが、もとより、最乗寺の禅僧ではなく、
独立した行者(山伏)だ。彼らが密教式の祈祷を持ち込み、
最乗寺独特の信仰形態=「道了信仰」が確立する。
寺格が高い曹洞宗の禅寺ながら、地場の信仰を受け入れ、
習合した経緯には、興味が尽きない。
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ついでながら、曹洞宗は民衆信仰に対して、適応力が高く、
「三大祈祷所」と称する寺は、全て共通する信仰形態をとる。
当所最乗寺始め、龍神信仰を奉ずる、山形・鶴岡の善宝寺、
豊川稲荷で知られる、愛知・豊川の妙巌寺などである。
現状、末寺一万四千と称するほどに、曹洞宗は発展したが、
その要因の一つに、それがあるかもしれない。
実際、中世前期までは、天台宗(修験道系)だった寺院が、
室町・戦国期を境に、曹洞宗へ宗旨替えをした例は、
各地で枚挙に暇がないのだ。
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道了が最乗寺造営中に掘り当てたと伝わる「金剛水」
「此の霊泉を飲む者、諸病癒すべし」と云う。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月 3日 (火)

足柄山中の天狗棲む寺へ(3)

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大雄山・最乗寺、開山の経緯はこうである。
了庵慧明禅師は、相模国・糟谷荘(現伊勢原市)の、
藤原姓を名乗る国人層((在地武士)の出身と伝わる。
氏は明らかでないが、後の壇越関係や、近隣の箱根権現、
別当職を輩出したことから、関東管領上杉氏の有力家臣、
大森氏(藤原姓)の可能性があるかもしれない。
鎌倉にて出家後、能登総持寺など各寺に住し、五十半ばで、
故郷相模へ戻って、小田原近郊の曽我郷に庵を結んだ。
ある日、大鷲が禅師の袈裟を掴んで、足柄山中の大松に、
掛けるのを観、当地を「勝地」として大寺を建立、最乗寺と称した。
時に、応永元年(1394)三月十日のことであったと云う。
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さて、禅師の弟子に「相模坊道了」(さがみぼうどうりょう)
と云う者がいた。元を質せば、曹洞宗の禅僧ではなく、
三井寺、聖護院で修行を重ねた、真正の「山伏」であった。
彼は、禅師が最乗寺を開くと聞くと、飛ぶが如く参じ、
寺の造営に「五百人力」を発揮して、僅か一年で成し遂げる。
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応永十八年三月二十七日、
了庵慧明禅師は七十五歳にて遷化した。
道了は「爾今、山中に在って、大雄山を護り、利生すべし」と、
生きながら「天狗」の姿に変じ、
火炎を背負い、右手に柱杖、右手に羂索を持って、
白狐の背に乗り立ち、天地鳴動と共に、
背後の山中へ隠れたのだった。
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爾来、この実に不思議な霊験譚が、
大雄山・最乗寺で語り継がれることになったわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月 2日 (月)

足柄山中の天狗棲む寺へ(2)

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三門を過ぎると、やや平坦な参道が杉の巨樹の間を縫うように続く。
寺社に付属する杉並木としては、
かなり大きなほうに入るのではないか。
ざっと観た感じ、樹齢六百年から三百年といったところで、
もとより、人工林であろう。
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参道沿いに、講中が奉献した石碑がずらっと並ぶ。
殆どが近代になってからのもので、
地域や職種については、後程触れよう。
特定の同業者の講が目立つようだ。
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やがて参道は右へ直角に曲がり、切石の石段が現れる。
壇上の「瑠璃門」をくぐれば、堂塔伽藍が建ち並ぶ境域となる。
大雄山・最乗寺の寺域は、優に130haを超え、
まさに「大寺」と呼ぶに相応しい。
曹洞宗の禅寺であり、室町前期の応永元年(1394)に、
了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師が開いたと云う。
寺格は永平寺、総持寺に次ぎ、修行道場を擁し、
現在、三十人の僧が学んでいるそうだ。
開山に際しては、実に不思議な物語が伝わっていて、
それが、この寺の存在を特異なものにしているわけだが、
これも後述しよう。
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本堂前に着いた。
本尊は、曹洞宗寺院の例に倣い「釈迦牟尼仏」(釈迦如来)だ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年3月 1日 (日)

足柄山中の天狗棲む寺へ(1)

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小田急線新松田で降り、路線バスで足柄山麓の「関本」に向かう。
中世世界のもう一つの箱根越え、足柄道の宿があったところだ。
其処で、バスを乗り換え、足柄山中の隠れた霊験所へ登る。
実は、去年の秋、一度探索したのだが、
年末の、時ならぬPCクラッシュにより、
撮影した全画像データーを散華させ、投稿を断念していたのだ。
やはり、どうしても、リベンジしたくなったわけである。
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さて、バスの終点は、既に参道の中程になる。
起点は、遙か下の仁王門で、全長3㎞に及ぶ長大さだ。
道往きは全て、鬱蒼とした杉並木の中を進む。
彼方此方に巨木がそそり立ち、出迎えてくれる。
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果てしもなく続く石段。
壮観だけれど、もとより、これだけはない。
「極め付き」が待っているのだが、後のお愉しみとしておこう。
B15022804
曲がりくねった石段を登ると「三門」が観えてくる。
「大雄山最勝寺」(だいゆうざん・さいしょうじ)だ。
(捨身 Canon G1X)

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