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2015年4月25日 (土)

鎌倉の化粧坂(6)

B15042401

鎌倉期の、幾つかの確かな文献に「化粧坂」が現れていた。
正応二年(1289)三月下旬、鎌倉を訪れた、
「問はず語り」の作者、後深草院二条は、坂上から観下した、
狭い谷戸々に、人家が犇めき合っている光景を、
鎌倉中の「小町屋」(商業地域)が許可された七か所に、
「気和飛坂上」(化粧坂上)が選ばれている。
鎌倉滅亡の二年前、「元弘の乱」(元弘元年=1331)で、
捉えられた後醍醐帝の近臣、日野俊基が処刑されたのは、
「化粧坂上」の葛原岡であった。
その鎌倉滅亡の元弘三年(1333)五月二十日、
「化粧坂上」では、新田勢と幕府軍の死闘が繰り広げられた。
彼は、三十そこそこの若さで討死を遂げる。
B15042402
「化粧坂」を抜ける古道は、
中世都市鎌倉と武蔵国府・府中を結ぶ、
大動脈と謂うべき存在だった。
現在では、想像もつかないが、坂上の尾根には、
町屋が建ち並び、市庭や遊女屋で賑わっていたらしい。
B15042403
尾根の両側の斜面には、何らかの施設が在ったと想われる、
平場の痕跡が認められた。
道筋も、何回か変わった可能性がある。
B15042404
「坂上」で出逢った初夏の花々に、暫し憩う。
今回の探索を、ひとまず終える。
一寸続きそうな日和に言寄せて、
次の目的地を物色して居るところだ。
さて、何処にしようか。
(捨身 Canon G1X)

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