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2015年4月の記事

2015年4月30日 (木)

五日市宿の市神石(4)

B15042901

現在の「阿伎留神社」の参道は、東側から入り、一旦屈曲して、
本殿へ向かうルートになっている。
本殿は真南を向いているので、本来の参道は南側に、
付けられていたのだろう。つまり起点は、多摩川の支流、
秋川の河原で、川岸より真直ぐ神域へ入る形となる。
段丘上の突端に位置するから、川を上り下りする船上からも、
よく観えたはずだ。ひょっとしたら、操船の目印になる、
「船当て山」だったかもしれない。
創立年代は不明だが、「畔切」或いは「秋留」と表記され、
既に、平安前期の延喜式や三大実録にその名が記される。
天慶三年(940)奈良から京都へ分霊された藤原氏の氏神、
「大原野明神」(京春日社)を武蔵国司も兼ねた藤原秀郷が、
当地に勧請したと云う伝承があり、
爾後、中世世界では「春日明神」とも呼ばれたようだ。
いずれにしても、多摩川の水運との関りが深いと考えていい。
太古、多摩川を遡上して、最初にこの地に入植した人々が、
祀った氏神だった…そんな想定もあり得ようか。
B15042902
やはり、社叢林には、水運との関りを想起させる楠の巨樹が多い。
B15042903
「丸に三つ柏」紋を染め抜いた幔幕。
社家の紋だろうか。
一寸調べてみたら、坂東平氏、秩父氏の系統で、
豊島氏の支流、葛西一族の紋とあった。
B15042904
ちょうど氏子の方が居合わせて、収蔵庫を開けて下さり、
独特な「六角屋根」の神輿を撮影させて頂いた。
祭礼は、九月二十八~三十日で、
五日市宿内を神輿が巡行するそうだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月29日 (水)

五日市宿の市神石(3)

B15042801

五日市宿裏の路地を辿る。
今まで探索した、各地の宿がそうであったように、
宿裏の風情は、概して好ましいものだ。
いい感じの民家の前を過ぎた。
B15042802
五日市の市庭成立の経緯は、よく判らない。
文献上の初出は、天正二年(1574)付、北条氏照書状と云われる。
少なくとも、中世世界後期の戦国期までは遡れるわけだ。
小田原北条氏は、領国内の街道と宿市庭の振興に熱心だった。
彼らの治世、五代百年の間に、整備された関東のインフラは、
ほぼそのまま、徳川政権下へ受け継がれ、大いに役立って居る。
「市神石」の起源も、その頃に求めていいだろう。
市庭を立てる際の「市の祀り」は、おそらく、
山伏たちが中心となって、行われたのではないか。
B15042803
鬱蒼とした社叢林と立派な鳥居が観えてきた。
B15042804
「阿伎留神社」(あきる)である。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月28日 (火)

五日市宿の市神石(2)

B15042701

現在「市神石」が鎮座している場所は、こんな感じになっている。
「五日市ひろば」という公園の入り口の角っこだ。
B15042702
これが「市神石」である。
往時は、五日市宿の中心、
おそらく、街道の真ん中にあったのだと想う。
憑代として運び込まれ、爾後「市神」となったのだろう。
「市神」(いちのかみ)は、住吉明神や阿弥陀仏、薬師如来、
さらには、宿神、蛭子神、大市姫、宗像伸、事代主、大国主等々…
様々な仏神に府会されたが、基本的には「賽の神」のような、
自然石、あるいは生木(巨樹)に象徴されることが多い。
いずれの場合も、起源は軽く古代へ遡り、
現存例は、少なくとも、中世世界で祀られたものだ。
それにしても、何とも不思議な面構えの「石」か。
一寸、眩暈を覚えるほどだった。
B15042703
さて、宿の中を進む。
上町(宿)仲町(宿)下町(宿)とお約束通りの構成だ。
古い町屋も少々残っているが、道路拡幅のせいか、
青梅宿に比べると、あまり数は多くないようだ。
B15042704
宿裏に入ると、やや雰囲気が出てくる。
この奥に「あきる野市」の名前のもとになった神社がある。
探索を続けよう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月27日 (月)

五日市宿の市神石(1)

B15042602

あきる野市の五日市駅に降り立つのは、十数年ぶりだろうか。
あの時は、たしか桧原村の三頭山へ、ブナ林の撮影だった。
B15042604
今回は、五日市宿内に現存していると聞いた、
「市神石」を確認するためである。
現状は、街道(五日市街道、或いは桧原街道とも)が拡幅されて、
何の風情も無くなった五日市宿だけれど、
探索すれば、想わぬものが見つかるかもしれない。
B15042601
多摩川の支流、秋川渓谷の段丘に沿って、
古道が走り、宿が展開している。
青梅宿に酷似した立地だろう。
B15042603
宿の東側から足を踏み入れて、
程なく、目的の「市神石」を発見する。
歩道脇の公園の入り口に、
ちょこんと、それは鎮座していた。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月25日 (土)

鎌倉の化粧坂(6)

B15042401

鎌倉期の、幾つかの確かな文献に「化粧坂」が現れていた。
正応二年(1289)三月下旬、鎌倉を訪れた、
「問はず語り」の作者、後深草院二条は、坂上から観下した、
狭い谷戸々に、人家が犇めき合っている光景を、
鎌倉中の「小町屋」(商業地域)が許可された七か所に、
「気和飛坂上」(化粧坂上)が選ばれている。
鎌倉滅亡の二年前、「元弘の乱」(元弘元年=1331)で、
捉えられた後醍醐帝の近臣、日野俊基が処刑されたのは、
「化粧坂上」の葛原岡であった。
その鎌倉滅亡の元弘三年(1333)五月二十日、
「化粧坂上」では、新田勢と幕府軍の死闘が繰り広げられた。
彼は、三十そこそこの若さで討死を遂げる。
B15042402
「化粧坂」を抜ける古道は、
中世都市鎌倉と武蔵国府・府中を結ぶ、
大動脈と謂うべき存在だった。
現在では、想像もつかないが、坂上の尾根には、
町屋が建ち並び、市庭や遊女屋で賑わっていたらしい。
B15042403
尾根の両側の斜面には、何らかの施設が在ったと想われる、
平場の痕跡が認められた。
道筋も、何回か変わった可能性がある。
B15042404
「坂上」で出逢った初夏の花々に、暫し憩う。
今回の探索を、ひとまず終える。
一寸続きそうな日和に言寄せて、
次の目的地を物色して居るところだ。
さて、何処にしようか。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月24日 (金)

鎌倉の化粧坂(5)

B15042301
「化粧坂上」の尾根道を北鎌倉方面へ進む。
おっと、いきなり目に入ってきたのは、
例に違わず、また巨樹だった。
ちょうど、尾根が狭くなったところだ。
B15042302
幹回り、2.8mと云う「大楠」である。
おそらく樹齢は、百年~は下らないのではないか。
もとより、境界地に於ける、巨樹の意味については、
繰り返し述べたつもりて居るが、こう実例が続くと、
探索でも、かなり予想がつくようになってくる。
実は今回も、薄々「そうかも」と想っていたのだ。
B15042303
何か、抱かれるような感覚を覚える大楠の幹。
温もりさえ伝わってきた。
B15042304
未だ樹勢も盛んなようで、
目出度き「常盤木」の様相を呈する。
もうすぐ、落葉と芽吹き、
そして、開花の季節を迎えるわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月23日 (木)

鎌倉の化粧坂(4)

B15042201

「化粧坂」上に出た。
散策に好適な、気持ちのいい尾根道である。
左右どちらへも往けるが、まず、左手(南側、長谷大仏へ至る)へ、
進んでみよう。
B15042202
木々の間から、登り口の谷戸を覗く。
ただ、往時は、細い掘立柱で、
吹けば飛ぶような建物群だったろう。
B15042203
暫く尾根をアップダウンすると、山頂部に公園が現れた。
「源氏山公園」だ。
1980年、頼朝の鎌倉入り800年を記念して、
建てられたと云う「頼朝像」があるが、
もとより、わざわざ時間を割くようなスポットではない。
B15042204
さて、踵を返して、今度は右手(北側、北鎌倉へ至る)へ進む。
此方側には、何かありそうだな。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月22日 (水)

鎌倉の化粧坂(3)

B15042101

「坂の神」の裏側(山側)へ廻ってみた。
多くの人が乗ったのか、滑々に擦り減っている。
所謂「鎌倉石」(砂岩)なので、脆いのだ。
こうやって観ると、元々当所にあったのではなく、
運び込まれたような印象を受ける。
B15042102
さらに上を目指す。
この辺りが、一番傾斜がきつい。
でも、一寸の間だけである。
B15042103
登りし方を振り返る。
騎乗では、不可能とは謂わぬが、かなり難しいだろう。
降りて、手綱を取って引いたと想う。
B15042104
尾根上に辿り着く。
此処より先は「源氏山公園」から来るハイキングコースと合流して、
北鎌倉方面へ向かう尾根道となる。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月21日 (火)

鎌倉の化粧坂(2)

B15042001

谷戸の湧水で滑り易くなった、取り付き部を過ぎると、
「化粧坂」は一度屈曲して、
一気に、尾根へ登り切る構造になっている。
長さ、標高差とも、せいぜい数十メートルに過ぎないだろう。
周囲の斜面に、切り落とされた痕跡があるので、
切通し道と云えなくもない。
B15042002
屈曲部に差し掛かって、上方を観上げたところ。
気になる岩が視界に入ってきた。
B15042003
屈曲部を抜けて、正面に出る。
やはり在った。
鎌倉の境界地たる「化粧坂」の「坂の神」なのか?
お約束通り、立ちはだかるが如く、
古道の真ん中に鎮座して居る。
この頃じゃ、大分見当が付くようになったと、つくづく想う。
B15042004
さらに近づく。
苔むして、形も悪くない。
仮に、そうだとしても、よく残っていたものだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月20日 (月)

鎌倉の化粧坂(1)

B15041901

実は、未だ訪れてなかったのだ。
現地に立ってみれば、何か発見もあるかと想い、
探索してみることにした。
「化粧坂」へ続く、谷戸の入り口に至る。
新緑が輝き、花々が咲き乱れ始めている。
一年で、最良の季節か。
B15041902
なだらかな坂道を詰めて往く。
左手斜面に、シャガの大群落があった。
B15041903
この時期、鎌倉の谷戸々を彩るシャガだけれど、
どうも天然らしくない。植栽が増えたものなのだろうか。
B15041904
谷戸奥の往き止まりが「化粧坂」の登り口だった。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月11日 (土)

足柄道を辿る(28)

B15041001

「本地堂」(聖観音堂)脇の石仏群だ。

宝冠、天衣、与願印、持物蓮華と、

典型的な「聖観音」の像容を示す。

右端は合掌で「三十三観音」内の一体かもしれない。

いずれも端正な造りである。

B15041002

既述のように、足柄明神社の本来の正面と参道は、

足柄古道そのものに沿っているわけだが、近代に入って、

県道側に参道を造ったようだ。

観るからに作為的で、全く景観にそぐわない。

しかも登り難くて往生した。不自然な傾斜と、

コンクリートで固めてあるので、転倒の危険がある。

頂上の木立が「本地堂」と本殿が鎮座する社叢だ。

B15041003

「新参道」からの眺望。

もとより、古道からのそれと、比べようもない。

明治期の神仏分離で、足柄明神社の祭神が大幅に改変されて、

「アマテラス、ニニギ、ヤマトタケル」となり、

なんと、元来の主神たる、由緒正しき「坂の神」=足柄明神が、

外されてしまったのだ。

名称も「足柄神社」となる。当然のことながら、住民の反発を生じ、

峠の故地に石祠を建て、再び足柄明神を祀るということがあった。

往々にして、現状の「神社」の「正体」とは、こんなものである。

探索に際して、十分留意の要があるのは、謂うまでもない。

B15041004

足柄明神社の真ん中を突っ切って、さらに峠へ続く足柄道。

この先も、かなり、古道を辿ることが可能なのだが、

とりあえず、今回の探索は此処までとしよう。

もう一寸触れたい事もあるが、次の機会へ譲る。

ご容赦を…

(捨身 Canon G1X)

…………………………………………………………………

*追伸 一息入れるの為、投稿を暫時休み、爾後再開します。

      その間はツイッターにて。

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2015年4月10日 (金)

足柄道を辿る(27)

B15040901

本殿から、足柄道を挟んだ、
古道の向こう側に、小堂が建っている。
否、足柄道が足柄明神社の境域のど真ん中を、
突っ切っていると表現したほうが相応しいだろう。
この足柄明神社で、一番興味深い場所だ。
奥大道(奥州街道)が、平泉の中尊寺の中心を貫く様に、
通っている例もあるように、古道と宗教施設の関係性には、
切っても切れないものがある。
道を護るに、必須の装置と謂ってもよいから、
究極の方法が取られるわけだ。
B15040902
「本地堂」とは、なんとも中世的な、
好ましい呼び方が残る「観音堂」である。
「坂の神」足柄明神の「本地仏」は「聖観世音菩薩」だった。
堂そのものは、そう古くはなさそうだが、
末枯れ様が、実にいい。
B15040903
雨ざらしの堂内。
扉の奥に「聖観音像」が安置されているのだろうか。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月 9日 (木)

足柄道を辿る(26)

B15040801

当地へ移された時期ははっきりしない。
一説に南北朝期とも云うが、
おそらく中世世界であったことは、動かないのではないか。
筆者としては、足柄城を縄張りした天文初年頃(1530~)
移動させる必要が生じたのではないかと考える。
この場所が選ばれたのも、十分に由緒があってのことだろう。
つまり、関本宿の境目と出口に当り、
本来は「関」が在って、しかるべき立地なのである。
設置されたのが、此処であったとすれば、
合点が往くことが出てくる。
例えば、それまで「坂本駅」であったのが、
文字通り「関」の直ぐ下の宿と云うことで、
「関本宿」と呼ばれるようになった由縁も頷けるわけだ。
B15040802
慶応二年(1866)再建の本殿と拝殿は、
かなり大きく立派なのだが、神職が常駐でないらしく、
地元の氏子の方々が管理しているようだ。
B15040803
境内には石造物が多い。
これは合祀された石祠類だろうか。
B15040804
最近になって、作り直されたものだろうが「道祖神」も残っている。
前述の筆者の仮説を、多少なりとも、補強すると想うのだが。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月 8日 (水)

足柄道を辿る(25)

B15040701

鬱蒼とした社叢林が観えてきた。
期待できそうな雰囲気が漂う。
B15040702
おっと、これは面白い。
足柄道(左側)から、参道(右側)が枝分かれして、
そのまま明神社の境域へ入っている。
社殿の正面は、古道が登ってきた方向、東南を向いているようだ。
まず「道ありき」の思想が感じられる。
もとより人のみならず、諸霊、疫病神も含む、
道を通う全ての者どもへ対する関門を呈しており、
如何にも中世世界的な空間=結界を形成するわけだ。
B15040703
社叢林より、振り返ったところ。
この辺りは、一寸したピーク=「坂上」になって居るみたいだ。
路傍に鎮座するのは、五輪塔の残欠だろう。
B15040704
さて、参道のほうを選び、結界の内へ進む。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月 7日 (火)

足柄道を辿る(24)

B15040601

足柄道は、徐々に高度を上げる。
廻りは、果樹園か植林地のようだ。
B15040602
屋敷林の傍も抜けた。
B15040603
一寸来たりし方を振り返って観る。
道筋は、決して真直ぐではなくて、
時にくねくねと、不規則にブレながら続き、
典型的な、中世古道の様相を呈する。
それが、何とも心地良く、惹かれて止まないわけだ。
B15040604
いきなり視界が開け、谷間を見渡せた。
ちゃんと、古道のお約束通り、尾根に近い斜面の中腹を、
トラバースしながら登っているのがよく判る。
棚田と集落が点在する渓谷か。
向こうの、春雨に煙る山々は、
最乗寺の在る箱根外輪山と明神ヶ岳だろうか。
中世世界の荘園を彷彿させる、印象的な光景だった。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月 6日 (月)

足柄道を辿る(23)

B15040501

「化粧坂」を過ぎると、足柄道と県道は別れる。

分岐点に「足柄神社入口」とあるが、参道と云うよりは、

古道そのもので、次第に雰囲気も出てくる。

B15040502

一寸登ると、花園と用水が現れた。

B15040503

古道は足柄峠へ向かって、谷間を往くのだが、

斜面をトラバースするように、県道(白い鉄柵のところ)より、

やや高みを並走している。典型的な中世古道の道筋だ。

B15040504

実は、今回の探索で、最も古道の風情を愉しませてくれる、

スポットだった。此処はお薦めである。

春雨の中、先へ進もう。

さらに吃驚させるものが…

(捨身 Canon G1X)

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2015年4月 5日 (日)

足柄道を辿る(22)

B15040401

関本宿、境界付近の足柄道は、なだらかな坂道が続く。
路傍に地蔵が祀られていた。
B15040402
「白地地蔵」或いは「化粧地蔵」(けわいじぞう)と呼ぶ。
安産と授乳に霊験ありとかで、
願が叶うと、地蔵の御姿に、うどん粉を塗る習いが伝わる。
だが伝承には、もっと深い由来が付きものだ。
実は、このなだらかな坂道を、遅くとも、室町期頃までには、
「化粧坂」(けわいざか)と呼んでいたらしい。
鎌倉はもとより、各地に今も残っている地名である。
B15040403
何故「化粧坂」と云うのか、その所以については、
諸説別れた儘で、よく判らない。
坂上か坂下に、遊女たちが集住したからとか、
近くに刑場があって、首を化粧したからだとか、
いずれも、中世世界の境界地特有の事情は押さえているわけで
当らずと雖も遠からずなのだが、決め手を欠く。
ただ、中世の都市的な場の、境界地に多く観られる、
特徴的な地名と謂うしかない。
一寸した研究テーマに相応しいのは確かだろう。
B15040404
此処でも、中世の五輪塔や宝篋印塔の残欠群が、
並べられていた。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月 4日 (土)

足柄道を辿る(21)

B15040301

そろそろ鄙びてきた足柄道だ。
徐々に標高も上がって、田圃と用水の中を進むようになる。
B15040302
「大門通り」と交わる角に、一寸した石塔群があった。
この辺りが、橋本宿の、足柄峠側の境界だったかもしれない。
観廻した限りでは、「筋替え」の痕跡は残っていないようだが、
おそらく、近隣の何処かに在ったと想う。
B15040303
様々な石塔が立っていて、興味深い。
碑文を判読してみよう。
B15040304
左は「浅間大神」 富士講碑でいい。
中央は「堅牢地神」(けんろうちしん)つまり「地神塔」だ。
「地神」とは、大地を司る「田の神」のような農業神である。
仏教では、十二天(梵天)の一つとも云う。
江戸の元禄頃から、農村の小字単位で、
「地神講」が組織され、明治期まで大いに流行った。
右は独特の異字体で難しいが「南無阿弥陀仏」の、
「名号塔」(みょうごうとう)だろうか。
もとより願主には「念仏講」が想定されるし、
これらの石塔の中では、最古の可能性がある。
右奥の二つは「双体道祖神」と、
「南無大師遍照金剛」と読めたから、
「弘法大師供養塔」らしい。やはり「大師講」が関る。
こういった一連の造塔は、「講中」の活動が盛んだった、
証左であり、やはり、指導する「先達」=山伏たちの存在が、
無視出来ないものになる。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月 3日 (金)

足柄道を辿る(20)

B15040201

往時の関本宿へ、想いを馳せようとすれば、
宿の至る処に残る、石造物たちに頼るしかなさそうである。
当地は、石造物の宝庫らしく、
「石仏フリーク」にとっても、理想的なフィールドだろう。
路地裏で、今も丁重に守られている「宿の地蔵」を見つけた。
B15040202
「富士講碑」だ。
左は「浅間大菩薩」の神号を、右は富士登山「参十三度」
の大願成就を刻む。
富士講の先達たちには、登拝三十三度、あるいは五十度、
六十六度、八十八度を記念して碑を立てる風習があった。
盛んになったのは、文化文政(1818~30)頃から、
幕末、明治期までと云われる。
「大菩薩」号から推して、
遅くとも、明治の神仏分離以前のものか。
B15040203
足柄古道と重なる、県道78号をさらに進む。
なだらかな坂道が続くようになってきた。
右側の土手は市営グラウンドだ。
B15040204
この辺りに、古代坂本駅の駅舎が在ったと伝わる。
グラウンドの入り口に、案内板が立っていた。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月 2日 (木)

足柄道を辿る(19)

B15040101

関本宿に戻ってきた。
時宗寺、龍福寺手前の「筋替え」が在ったと想われる交差点。
右側の駐車場は、近世の高札場跡だ。
B15040102
現在、高札が再現されている。
今回は、この前探索した「お君塚」の先、足柄峠方面へ、
宿が果てるまで往ってみよう。
B15040103
直ぐに「上宿の道祖神」が見つかる。
関本宿は、上、仲、下に分かれる、大きな宿だった。
其々に「道祖神」が現存しているそうだ。
B15040104
此処にも「双体道祖神」が二つある。
あとは、中世の五輪塔と宝篋印塔の残欠群だった。
(捨身 Canon G1X)

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2015年4月 1日 (水)

足柄道を辿る(18)

B15033101

峠上の古道は、こんな感じで、足柄城の各曲輪を隔てる、
空堀と堀切の底を、縫うように通っている。
上掲は、小田原側「明神曲輪」と「山の神曲輪」間の古道。
この後、県道へ合流して、本丸直下に至るわけだ。
B15033102
本丸から足柄道は、御殿場側への下りになる。
その手前の「坂上」に、またもや巨石があった。
「新羅三郎義光吹笙之石」
(しんらさぶろうよしみつ すいしょうのいし)と呼び、
鎌倉中期の説話集「古今著聞集」所収の物語に因む。
源義家の弟、新羅三郎義光は、寛治元年(1087)
後三年の役に際し、兄の援軍として、奥州へ赴く。
その途中、足柄峠にて、都より後を追ってきた、
笙の師匠、豊原時元の子、時秋に笙の秘曲を授けた。
その場所が、この岩上であったと云うものだ。
B15033103
伝承のほうはともかく、
これは、毎度、お約束通りの「置石」(おきいし)遺構であろう。
疫病神、怨霊の侵入を防ぐために置かれた、
道祖神=賽の神である。
現在は路傍だが、往時は足柄道の路上真中に、
立ちはだかるように鎮座していたと想う。
B15033104
さて、とりあえず、今回の足柄峠の探索は此処までとして、
再び、麓の関本宿へ取って返そう。
未だ幾つか、とっておきのスポットが残っているのだ。
(捨身 Canon G1X)

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