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2015年5月の記事

2015年5月31日 (日)

小野路宿にて(4)

B15053001

「小野路宿」で交差する主な古道へ、
一寸だけ、足を踏み入れてみた。
まずは「府中道」か。
現状、車一台がやっとで、すれ違いは難しいが、
他の古道と比べれば、その差は大きい。
この先、竹林が続き、尾根道をとる。
B15053002
反対側の「八王子道」 もとより車通行不可だ。
こちらは、昔ながらの古道の風情がよく残っている。
想わず引き込まれ、もう少し進むと、
B15053003
鬱蒼とした坂道になって、やはり尾根筋を目指す。
手前に小橋が観えるが、その下は何と「鶴見川」の源流なのである。
当地では「小野路川」と呼び、宿内を流れる用水を呈して往く。
B15053004
「布田道」も、車が通行出来ないが、
若き日の近藤勇や土方歳三が歩いた道と云うことで、
全国から訪ねる人が絶えないそうだ。
いずれにしても、多摩丘陵の奥地に隠れた「小野路宿」は、
首都圏でも稀な古道の宝庫と謂っていい。
気軽な「古道探索」には好適だろう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月30日 (土)

小野路宿にて(3)

B15052901

「小野路宿」は、多摩丘陵の狭い谷戸に立地するので、
集落の直ぐ裏まで、山が迫っている。
由って、他の宿跡のように「宿裏」を彷徨う愉しみが少ない。
でも「布田道」を一寸登って、農家の納屋裏から、
宿の表を覗いてみた。
束の間だけれど、木曽の山中に居るような気分に浸れる。
折しも新緑が眩しく、悪くない風情だった。
B15052902
「小野路宿」の古民家群だ。
B15052903
前述の理由で、敷地が限られ、戸数も多くないが、
例外なく蔵を備え、往時の富裕ぶりが窺える。
「小野路宿」は、江戸後期、大山参りの流行に伴い、
最盛期を迎える。
当地を通る街道は、甲州道中の府中宿と、
江戸の赤坂、渋谷を経て、大山へ至る「矢倉沢往還」
すなわち「大山道」のメインストリートの、
伊勢原・粕谷宿を結ぶ、極めて重要な間道だった。
しかも、同じ甲州道中の調布、八王子からの支道が、
交差し、さらにその先の川越街道、日光街道、
或いは東海道へも、接続していたわけだ。
B15052904
近藤勇、土方歳三ら、新撰組関係者を支えた、
宿名主、小谷鹿之助屋敷前に至る。
現在は資料館(月二回のみ開館)になっているようだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月29日 (金)

小野路宿にて(2)

B15052801

「小野路宿」の入り口を、宿側より観たところ。
幅員減少している部分がよく判る。
路線バスが通るから、すれ違いは結構難儀だ。
この谷戸は、通り抜けになっているらしく、案外通行量も多い。
B15052802
宿内に入る。
道路拡幅は最近行われたようだ。
併せて、後退した民家側に、それらしい木塀が設置されているが、
「和風居酒屋」の如き、小奇麗な構造物はしっくりこない。
手は込むけれど「古色仕上げ」に出来なかったものか。
B15052803
一寸進むと、分岐が現れた。
前回投稿の「宿略図」右手前に示される「布田道」(ふだみち)だ。
甲州道中の「布田五宿」(現・調布市内)へ通ずる。
幕末期、小野路宿の「宿名主」小島鹿之助は、
近藤勇、土方歳三ら、新撰組関係者の支持者だった。
彼は当地の屋敷内に道場を設け、近藤たちを出稽古に呼ぶ。
彼らが通った道が「布田道」だと云う。
新撰組ブームで、歩く人も増えたそうだ。
B15052804
宿中「高札場」跡に至る。
「中宿」バス停とあるように「小野路宿」も、お約束通り、
「上宿、仲宿、下宿」の構成になって居るわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月28日 (木)

小野路宿にて(1)

B15051805

寓居近くの多摩丘陵に、こんな宿跡が隠れていた。
「小野路宿」と云う。
町田市側の、谷戸の最深部で、
うっかり見落としてしまうような場所だ。
しかも、上掲図の如く、五本もの古道が交わる、
「古道ジャンクション」を呈して居る。
早速、探索してみることにした。
B15052301
多摩センター駅前から、一時間に一本、宿の中を通る、
路線バスが出ており、ものの十五分程度で着く。
宿の北側入り口(上掲図右端)のバス停で降りると、
傍らに、大きな銀杏の木が結界を示すように立っていた。
B15052701
現在は「四つ辻」になっているが、右手(北側)の、
多摩センター方面より来るバス通りは、新しい道のようだ。
上掲図に「八王子道」と「府中道」とあるのが古道で、
手前(東側の舗装道)と向こう側(西側の小径)の「追分け道」が、
其々に相当する。
B15052702
「八王子道」側から観たところ。
向こう側の「府中道」が「小野路宿」のメインストリートで、
ちゃんと、お約束通り、クランク(筋替え)が残っていた。
B15052703
さて、南側へ進み、宿の中へ入って往こう。
入り口のこの部分だけ、幅員が窄まった儘で、
通り抜ける車がすれ違えず、難渋しているみたいだが、
これが本来の道幅なわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月23日 (土)

五日市宿の市神石(27)

B15052201

やや坂を上ったところが「光厳寺」の門前だ。
門前には六地蔵が並ぶ。
南北朝期の建武年間(1334~38)に足利尊氏が開いた、
臨済宗の禅寺である。
どうして、こんな山中にと想うが、寺伝に拠れば、
尊氏の意を受けて、僧籍に在った北朝の弥仁親王、
(いやひと=後光厳天皇)が匿われていたからと云う。
そんな事情からか、寺格も高いようだ。
隣地の三嶋社と同様、「城山」麓の斜面を「段切り」した、
敷地に建てられており、この辺り一帯が、山城の「根小屋」
(城主の日常の居所)だった可能性もある。
B15052202
山寺ながら、端正な境内だ。
B15052203
さりげなく、中世の五輪塔が座って居たりする。
B15052204
寺の横に「山城」へ至る、もう一つの登山口があった。
頂上直下に、難所の岩場が待っているほうだ。
かつて、山伏が修行に使った道なのだろうか。
……………………………………………………………………
さて、ひとまず、五日市宿の稿を終える。
暫時休息を頂き、次の探索へ備えるとしよう。
(捨身 Canon G1X)
……………………………………………………………………

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2015年5月22日 (金)

五日市宿の市神石(26)

B15052101

境内には、かつて「戸倉本郷」の各所に祀られていた、
小祠が集められている。
各地の鎮守社で、よく観られる光景だ。
明治期の神仏分離に伴い、村内に御座した神々が、
強制的に合祀された名残りであることが多いようだ。
B15052102
三嶋社の境域は「城山」の麓の斜面を、
「段切り」(斜面を水平に掘削して、雛壇状の平場を造成)して、
造られている。
抑々、当地の「産土神」であったから、
この場所は、太古より、祭祀の庭であったろう。
縄文期の石棒が出土しているのが、その証左である。
今でも、谷側へ張り出した、人工的な土塁様の盛り上がり(上掲)
が観られる。
中世世界では、寺社も城郭と変わらない結構を備えていた。
或いは、そういった遺構であるかもしれない。
B15052103
さて、三嶋社を出て、光厳寺へ向かおう。
B15052104
「戸倉本郷」の集落を観下ろしながら、
「城山」の腰部を廻るように進む。
気持ちのいい小径だ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月21日 (木)

五日市宿の市神石(25)

B15052001

二つの堂舎が並ぶという特異な配置だ。
右が三嶋社、左が「武多摩社」(ぶたま)になっている。
B15052002
三嶋社は覆堂で、内部に中世の様式を残す、
流れ造りの拝殿と本殿が納まる。
興味をそそられるのは「武多摩社」ほうだ。
この名称は新しく、明治の神仏分離で付けられた。
よく観察すると、面白い特徴に気付く。
三嶋社は通常の神社様式なのだが、この堂は仏殿様式なのだ。
近くに寄ってみよう。
B15052003
朱塗りの垂木、花頭窓、格天井は、仏教寺院のそれで、
やはり、近世までは「不動堂」だったようだ。
禅宗様の「花頭窓」からも、推せるように、
かつては、隣地の光厳寺の持ちであった。
平安末期作の不動像が祀られているが、
由緒はもっと遡り、本来は当地の「地主神」とも云う。
戸倉(座)の神の本地は、岩峰と山伏の存在を、
窺わせる「不動尊」だったわけか。
いずれにしても、天徳二年(958)と伝わる、
三嶋社勧請(こっちは、多摩川水運由来か)の、
ずっと前より、鎮座していた可能性が高い。
中世世界の神仏混淆の残滓を濃厚に残していると謂えるだろう。
B15052004
賽銭箱の側面に「戸倉村本郷」とあるのが床しい。
「本郷」とは、当地で最初に拓かれた、誇りある郷のことであり、
古代では郡衙の所在地、中世では一族の本貫地を意味する。
此の社の庭で行われたであろう、年中の祖先祭祀はもとより、
集落の命運を左右する「寄合い」にも、想いを馳せてみたい。
(捨身 Canon G1X)  

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2015年5月20日 (水)

五日市宿の市神石(24)

B15051901

「城山」の麓に鎮座する、一社一寺とは、
三嶋社と臨済宗建長寺派の禅寺、光厳寺である。
まず、三嶋社のほうから、探索してみよう。
石造物が点在する小径を辿って往く。
B15051902
おっと、集落の仲と雖も、十分注意なのだ。
まぁ、これは、各地の霊験所共通の習いではあるが。
B15051903
三嶋社々頭に至る。
本社の伊豆三嶋社については、既に探索済みなので、
当地では、正面の「城山」を「神体山」に配して、
山城(戸倉城)の鎮守にも擬せられているが、
本来は、航海水運の守り神だ。
その辺りは、追々突っ込みを入れるとして、
規模は小さいけれど、参道は、程よい長さの道行を伴う。
霊地としての、由緒も予想させるわけだ。
B15051904
結界をくぐる。
やはり、一寸した異界の空気が漂ってきた。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月19日 (火)

五日市宿の市神石(23)

B15051801

「城山」の頂上に設置されていた山城の想像図だ。
大手道、出丸、本丸と、順路が大体把握出来る。
左が東側、五日市宿の方向になる。
宿からだと、本丸の峰に、出丸の尾根は隠れてしまう。
恰も、西方に立ちはだかる、独立峰のように観え、
ちょうど眼前で、秋川も遮られるように屈曲しているから、
峰自体が「神南備山=かむなびやま」(神体山)と、
捉えられていたかもしれない。
地名の「戸倉」は、渓谷に立てられた「戸」のような、
仏神の御座す「座=くら」(→倉)と、読めないこともなかろう。
B15051802
頂上、本丸の東端は、やはり「戸」を立てた如く、
切れ落ちた岩場になっていた。
しかし、これを下るのが、もう一本の東側の登山道なのだ。
一昨年の暮れに、骨折騒動を起こしているので、
此処は自重して、先程の大手道を戻ることにした。
仮に、登りはよくても、下降では、一寸でも、
感覚が鈍って居れば、怪我は必定だからだ。
B15051803
やれやれ、大手道の登山口に降りてきた。
B15051804
さて、この後、麓の一社、一寺を廻って、仕上げとしようか。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月18日 (月)

五日市宿の市神石(22)

B15051701

おっと「石積み」は、ご丁寧にも二重になっていた。
本来は土塁で仕切られた「虎口」であろう。
歴史に、無いものを求めてならぬのは、もとより基本のキだ。
さて、気を取り直して、あと一歩を登る。
B15051702
「城山」頂上、本丸(主郭)に辿り着く。
週末でこの好天、ハイカーの天国だった。
B15051703
眺望を確かめてみよう。
やはり、五日市宿を正面に望み、
抜群の「勝地」であることは、論を待たない。
手前の宿の、酒蔵の煙突がよく観える。
B15051704
五日市宿で市庭が開かれた日は、人々の賑わいが、
手に取るように判ったはずである。
山城から、宿と市庭がよく観え、また反対に、
宿と市庭からも、山城がよく観えること。
これは必須条件だと想う。
領主と領民の「観る」「観られる」の相互関係は、
双方の間に、信頼と同時に、ある種、緊張感を生じせしめる。
またそれは、仏神と人々の関係にも重なり、
両所に、仏神の御座す庭が整えられる。
中世世界の宗教的な空間をも、端的に体現する、
ミクロコスモスと謂っていい。
道理で「洛中洛外図屏風」を想起したわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月17日 (日)

五日市宿の市神石(21)

B15051601

もとの主尾根上の分岐に戻る。
実は、此処が一番、山城らしい遺構ではないかと想う。
左手が登ってきた大手道、
手前が今し方観た出丸(二曲輪)への尾根道、
右手が本丸(主郭)へ至る道だ。
正面に立ちはだかるのは、本丸直下の土塁だろう。
本丸へ至る道は、この後、左へ屈曲し、あの土塁上を進む。
B15051602
分岐を把握するために、土塁へ上がってみた。
右側から登ってくる大手道が、この土塁にぶつかって、
左手へ、直角に曲がっているのが判るだろう。
そして左側、尾根上の分岐を経て、再び屈曲、土塁上を往く。
つまり、山城の構造から謂えば、典型的な、
「枡形虎口」(ますがたこぐち=出入道をクランクさせた城門)
を呈するわけだ。
B15051603
土塁の上は、ご覧の通り、小さな平場になっており、
本丸に連なる「曲輪」の一つを形成している。
B15051604
さらに上へ。いよいよ本丸に向かう。
ここも「虎口」になっているが、土塁の代わりに、
それらしい「石積み」があった。
もとより、勝手な「再現」か。困ったもんだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月16日 (土)

五日市宿の市神石(20)

B15051501

主尾根上に出た。ここで大手道は二つに別れ、

向こう側、左手の道は本丸(主郭)へ登って往く。

手前側、右手の道は、稜線上を西へ向かい、出丸(二曲輪)に至る。

まず、出丸のほうを確認してみよう。

B15051502

尾根道は何回かアップダウンを繰り返す。

「堀切」の痕跡のように観えるところもある。

B15051503

コの字状の屈曲(右側は土塁で、枡形の痕跡か)を過ぎると、

やや登って…

B15051504

小さな平場に往き当った。

この先は急斜面が下っているようだ。

主尾根西端の出丸跡(二曲輪)だろう。

往時は、木立が切り払われて、土がむき出しの頂だった。

遠方からでも、山城が在るのがよく判ったはずである。

中世世界の山城は、ある意味で、

その存在を誇示していたと想う。

(捨身 Canon G1X)

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2015年5月15日 (金)

五日市宿の市神石(19)

B15051401

この斜面を登り切れば、主尾根から枝分かれしている、
小尾根の稜線上へ取り付く。
林間が明るくなってきた。
B15051402
小尾根上に出た。
尾根道が分岐して続いている。
ひとまず「大手道」を離れて辿ってみよう。
B15051403
樹間から一瞬、下界が観えた。
何と、正面に五日市宿である。
真ん中の街道を挟んで、両側の家並みが手に取るようだ。
この眺望は極めて重要なので、後ほど触れねばなるまい。
B15051404
小尾根の先端は、狭い平場になっている。
何らかの防御施設(曲輪)が在ったのだろうか。
手前が一寸窪んでいるが、ひょっとしたら「堀切」か、
「竪堀」の痕跡かもしれない。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月14日 (木)

五日市宿の市神石(18)

B15051301

疑似「石積みの掘り底道」を抜ける。
一息ついて、振り返って観ると、
沢筋に沿った小尾根の腰部を辿ってきたのが判る。
B15051302
木立の間から、山麓の家々が望めた。
街道が走る山裾の、やや高みに展開する集落(宿)だ。
中世世界より、営々と続いてきたと謂ってもいいのではないか。
この山城に日々詰めて居れば、宿の人々の暮らしぶりが、
一目瞭然だったと想う。
B15051303
もう一寸で、小尾根の稜線に取り付けるはずだ。
B15051304
さぁて、呼吸を整えて、
この崖を、安全綱を頼りによじ登らねばならぬ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月13日 (水)

五日市宿の市神石(17)

B15051201

登り口のところに、「城山」の概念図が設置されていた。
山城の地形と配置が、大まかに掴めるようになっている。
とりあえず、頂上の本丸と稜線上の出丸を目指し、
麓の諸施設、三島社と光厳寺は、後ほど訪ねることにする。
途中、気になる遺構があれば、その都度、探索の歩を留めよう。
B15051202
本来は、尾根伝いに付けられた古道と想われる。
全行程、きつい傾斜が続くが、
整備されたのは、比較的近年だろう。
B15051203
然も古道らしく、
法面を押さえた「掘り底道」になっているが、
もとより、新しいものだ。
発掘調査などの根拠に基づいた再現ではあるまい。
こういった「主観」(否、流行りの歴史捏造か)が先走った、
施設には、全く賛成出来ない。
もし「山城ブーム」の受け狙いであれば、なおさらだな。
B15051204
鬱蒼とした植林の中を詰めて往く。
左手の斜面は「竪堀」かと想ったが、沢筋のようだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月12日 (火)

五日市宿の市神石(16)

B15051101

例によって、宿裏に入り込み、「城山」の登り口を目指す。
5/6投稿の地図上では、左上端の神明社辺りになる。
酒蔵の煙突(左上)を観下しながら、「城山」の山裾を登り、
北側へ回り込む。
B15051102
集落の高みに鎮座する、道祖神の石祠だろうか。
B15050804
北側から観た「城山」の山容。
正面とは大分違って、穏やかな顔を向ける。
案外、往けそうな感じだ。
でも、侮ってはならないことが、この後判明するわけだ。
B15051103
登り口に着いた。
この道は、おそらく中世世界の古道で、
山城の「大手道」ではなかったかと云われている。
さて、ステージ変わって、ここからは「登山」だ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月11日 (月)

五日市宿の市神石(15)

B15050901

檜原街道は、子生(こやす)社前を過ぎ、沢戸橋を渡ると、
ほぼ直角に、北へ屈曲し、小さな集落に入る。
「本郷」と云う小字だが、ひょっとしたら、
中世城館に付随する「宿」の痕跡かもしれない。
近世城下町の萌芽のようなものと謂ったらいいだろうか。
初期の中世世界では、領主は既に在った、
宿や市庭などの都市的な場に、吸い寄せられるように、
自らの城館を設ける傾向があったと想う。
それが、室町中期以降になると、領主のほうが積極的に、
宿や市庭を、城館の膝元へ誘致するようになる。
彼らは日頃、必要に応じて、商人、職人、芸能者、
宗教者たちに声を掛け、集住するように促し、
コネも張り巡らしていたはずだ。
筆者は、各地の中世城館を探索する際に、
城館そのものよりも、近傍の宿や市庭跡の立地を、
確認するようにしている。
注意して探せば、その城館と対になる宿や市庭が、
かなりの頻度で見つかるものなのだ。
B15051001
街道の両側には、古民家が建ち並んでいた。
やはり、規模は小さいが、古い宿跡であった可能性が高い。
B15050902
明治期創業の酒蔵もあった。
現在も操業し、名産の地酒を醸造しているそうだ。
B15051002
「宿」から望む「城山」(戸倉城)は、真正面の山容だ。
さて、気を引き締めて、取り掛かろうか。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月10日 (日)

五日市宿の市神石(14)

B15050904

五日市宿から、西方の「城山」への道筋を辿る。
とりあえず、昨日投稿の地図を参考にして頂こう。
地図上、左側中程、檜原街道沿い(21)が子生(こやす)社前だ。
この辺りが、五日市宿の西側の境界であろうか。
現在の街道は、その儘北上するが、古道は別れ、
[20]沢戸橋で秋川を渡る。渓谷と秋川も、眼前で、
ほほ直角に、屈曲しているのが興味深い。
謂わば、自然地形が「筋替え」(クランク)を呈しているわけだ。
探索は古道のほうへ進むことにする。
B15050903
子生社々頭に至る。
一対の大杉が、恰も門の如く、参道を挟み込むように立つ。
おそらく、古態を保っているのだろう。
凡そ、絵に描いたような見本とも、謂えそうな結界だな。
安産の神を祀ると伝わるが、五日市宿の西の結界を護る、
「賽の神」が起源なのかもしれない。
B15050802
[20]の沢戸橋上から、秋川の屈曲部を観る。
河原にテント一張、季節も宜しBBQか?
B15050803
上流方向を望む。
この橋を渡ると、古道も北へ屈曲し、小さな宿に入って往く。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月 9日 (土)

五日市宿の市神石(13)

B15050801

今までの探索の足跡を、地図上で振り返ってみる。
中心上方(北側)がJR武蔵五日市駅、やや左下が五日市宿だ。
( )と[ ]で囲む数字で、凡その各位置を示す。
左(西側)から右(東側)へ、蛇行しながら流れるのが秋川、
同様に貫く道が、五日市街道(檜原街道)になる。
五日市(28)と表示された、半島状に突き出た河岸段丘[33]に、
阿伎留神社があった。[87]辺りに市神石が鎮座する。
大悲願寺は右上方(42)伊奈宿は右中の(47)辺り。
市神石祠は、その下(南側)街道の向こう側に祀られていた。
さて、これから向かうのが、左側やや上方[18]の「城山」である。
中世の山城で「戸倉城」と云う。
路線バスの車中=[30]上方の街道上から観た山容(下掲)だ。
標高は434mだが、山頂直下に、かなり急峻な斜面が控えて居る。
最低限の「山備え」が必要だろう。
B15050205
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月 8日 (金)

五日市宿の市神石(12)

B15050701

然も村境らしい、地蔵の傍らを過ぎて、
JR五日市線の線路沿いを伊奈宿方向へ進む。
B15050702
再び、踏み切りを渡って、五日市街道に出た。
「伊奈坂上」バス停の辺りから、かつての伊奈宿に入る。
近くの私有地に、伊奈宿の「市神」が現存していると、
郷土館で聞いたので、見廻したら、すぐに見つかった。
こちらは石祠の形である。
B15050703
補修されているようだが、寛文二年(1662)の銘が残り、
やはり、伊奈石で出来ているそうだ。
「市の出入り」の顛末を続けよう。
月六回の「六斎市」になった五日市の市日が、
伊奈宿の市日の前日に当ってしまい、市庭は大打撃を受ける。
一方で、繁栄を増す五日市の商人たちは、薪炭を出荷する、
秋川渓谷上流の村々に対し、優位な立場で取引を始めた。
明和七年(1770)不満を持った養沢村は、
伊奈宿と共同して、訴えを起すに至る。
だが、訴訟が長引き、経済的基盤の弱い養沢村は、
五日市との示談へ追い込まれてしまう。
単独で戦うことになった、伊奈宿の三十二軒の問屋たちは、
直訴を決意、連判状も作成している。
明和八年二月、裁決が下り、訴えは五日市側の完勝に終わった。
爾後、伊奈宿は衰退への道を辿って往くわけだ。
B15050704
現在の伊奈宿は、五日市街道の拡幅などもあって、
ご覧の通り、往時の宿らしい景観を殆ど留めていない。
よすがは「市神」の石祠のみのようだ。
さて、五日市宿東側の探索をひとまず終え、
今度は西側へ廻ってみようと想う。
過酷な山城登攀もあるので、乞うご期待?
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月 7日 (木)

五日市宿の市神石(11)

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この大悲願寺、かつては「彼岸寺」とも呼ばれたようだが、
戦国史ファンの間では、話題のスポットになっているらしい。
人気の伊達正宗ゆかりの寺と云われているからだ。
何故、奥多摩の山寺と、奥州の独眼竜・正宗が繋がるのか。
その理由となる、よく知られた書状が伝わっている。
元和八年(1622)八月、秋川の鮎漁見物にことよせて、
当寺を訪れた、五十六歳の正宗が、庭に咲いていた、
白萩を気に入り、株分けを所望する内容だ。
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正宗の来訪には、別して目的があった。
当時、大悲願寺の住僧だった、末弟の秀雄に会うためである。
実は、その秀雄が、小田原攻め直前の天正十八年(1590)に、
実母の義姫と正宗の毒殺を謀ったとして、手打ちにされた、
同母弟の小次郎であったという、新説が賑わしているのだ。
つまり、正宗毒殺未遂事件は、ある意味、狂言であり、
小次郎は、正宗の暗黙の了解の下、秀雄に身を窶して、
生存していたと云うわけだ。
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わりと情況証拠が揃っているので、
この新説を、支持する人が増えていると聞く。
筆者も、面白いとは想うのだが、
残念ながら、やはり、直接証拠に欠くのが弱い。
(仮に事実としても)正宗にしてみれば、最高機密事項だから、
「沈黙」はやむ得まいか。
とまれ、すっきりしないのは確かで、
現時点では「保留」とするしかないだろう。
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さて、大悲願寺のもう一つの門(長屋門)を出て、
伊奈宿へ向かうとしよう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月 6日 (水)

五日市宿の市神石(10)

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大悲願寺山門前に至る。
宗旨は真言宗豊山派、まぁ、端的に謂ってしまえば、山伏の寺だ。
建久二年(1191)頼朝の命で、武蔵七党の「西党」の一族、
船木田荘平山郷(現日野市平山)に棲んだ御家人、平山季重が、
創建したと伝わる。中世世界の、五日市宿を含む、
秋川渓谷一帯は、平山氏、小宮氏、小川氏、二宮氏といった、
「西党」の諸流の人々が領していたようだ。
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境内横で、無造作に積まれた石材群を観る。
伊奈宿の辺りは、中世世界のいつの頃からか、
石材の産地として知られていた。
この地名も、信濃の伊奈谷より移住した石工集団に因むらしい。
切り出される石材は「伊奈石」と呼ばれた。
先刻の「五輪坂」の石塔もそうである。
当地の石工たちは、各地の築城(八王子城足柄城、江戸城など)
や普請に動員されたと云われる。
石材の運び出しには、多摩川の水運が利用されたのだろうか。
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結界の内へ誘われる。
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華麗な彫刻が施された観音堂だ。
建立は、寛政六年(1794)だが、堂内に安置された、
阿弥陀、観音、勢至の三尊像は、平安末から鎌倉初期の優品で、
重文指定になっている。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月 5日 (火)

五日市宿の市神石(9)

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「五輪坂」を詰めて往く。
おそらく、古道なのだろう。
坂の上には、ただ五月の青空、雲もない。
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登り切ったところに、JR五日市線の踏切があった。
中世世界の坂、そして、現代世界の踏切か。
この世の、二つの境界が期せずして揃い、
これから、異界へ迷い込むには、打って付けのスポットと、
なって居るわけだ。
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眼前に茶畑が広がり、山裾に廻らされた白壁瓦葺塀と、
山門が観えてきた。
「大悲願寺」だ。
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典型的な、多摩の古寺の佇まいだろう。
一寸、寺格の高さも窺わせる。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月 4日 (月)

五日市宿の市神石(8)

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五日市宿を出て、東隣(秋川下流)の伊奈宿へ向かう。
ほぼ、JR五日市線の線路に沿った道筋だ。
途中に、あきる野市屈指の中世寺院、
「大悲願寺」が在ると聞いたので、寄ってみよう。
その寺は、古道、宿、河を見下す、北側の山裾に立地し、
ちょうど青梅宿の「乗願寺」と、そっくりな位置関係を呈する。
山里の風情たっぷりの集落を抜けた、先のようだ。
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おっと、坂下で、甲府盆地に多い「丸石道祖神」かと想ったら、
上部の「火輪」「風輪」「空輪」が欠けた五輪塔だった。
残った部分の形状から推して、おそらく中世後期のものか。
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五輪塔から観た秋川渓谷。
此処で、五百年観続けていたのかもしれないな。
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郷土館でもらった地図を確認したら、
「五輪坂」と呼ぶらしい。
(ごりんざか=もとより、2020年のやつとは無関係だ。念のため)
そうか、この坂を登れば「大悲願寺」へ至るわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月 3日 (日)

五日市宿の市神石(7)

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五日市宿は、秋川の段丘上に立地するので、彼方此方で、
流れ込む支流が渓谷を刻み込んでいる。
本流の秋川も蛇行しているから、街道は幾つもの、
切り立った谷を渡らねばならない。
宿々は谷で隔てられ、境界の代わりになっていたそうだ。
宿裏の民家が、こんな風に建っているところもある。
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近世に入ると、大消費地、江戸の薪炭の供給地として、
多摩川上流域が注目され、五日市は炭の取引で、
活況を呈するようになる。
明暦年間(1655~80)に、月三回の「三斎市」が、
六回の「六斎市」になったのがきっかけで、
東隣の伊奈宿の市庭との間で争論が起った。
その一連の訴訟を「市の出入り」と呼ぶ。
それはそうとして、まず腹ごしらえをせねば。
「出入り」の経緯は、伊奈宿へ往ってから話そう。
とりあえず目指すのは、紹介して頂いた、
評判と云う「自家栽培粉のうどん店」か。
ちょうど、五日市宿と伊奈宿の間に在ると聞いた。
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もとより、あきる野市も、武蔵西部や山梨、埼玉県同様、
うどん文化圏に入っている。
コシのある、太麺を堪能してきた。
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さて、伊奈宿との境界に至る。
庚申塔と道祖神が迎えてくれた。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月 2日 (土)

五日市宿の市神石(6)

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五日市宿、南側の宿裏は、秋川を見下す段丘の端で、
切れ落ちる地形になっている。
ちょうど崖際に楠が立ち、地蔵堂があった。
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あきる野市五日市郷土館では、有益な情報を得ることが出来た。
後半の探索ルートでも、アドバイスを頂く。感謝である。
その成果は、後ほど紹介しよう。
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敷地内に移築保存されている築二百年の古民家にて。
かつて北側の宿裏に在り、番匠が棲んでいたそうだ。
間取りが、青梅宿で観た重文指定の古民家とそっくりだった。
典型的な、杣人の在家なのだろうか
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街道へ戻り、アドバイスに沿って進むことにする。
いい昼飯処も聞いたので、まず腹ごしらえだな。
その前に、賑わいが頂点に達した近世の五日市宿で、
度々起こった「市の出入り」と呼ぶ騒動について、
触れねばなるまい。郷土館で伺った話だ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年5月 1日 (金)

五日市宿の市神石(5)

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宿裏の路地を辿りながら、さらに市庭の奥へ進み、
「あきる野市五日市郷土館」へ向かう。
遅くとも、戦国期までには、取り立てられたと考えられる、
「五日市」は、その名の通り、五、十五、二十五の五の日、
月三回の「三斎市」であったろう。
杣人、木地師、轆轤師、塗師、紙漉きたちが持ち込む、
山間の産物と、多摩川水系を遡上して齎される、
平野や海の産品が交錯する市庭として、賑わったのか。
眼前の秋川岸には、河湊が開かれていたはずで、
山間の産物を積み込んで、多摩川へ下って往けば、
江戸湾の諸港、とりわけ品川津とのアクセスは容易である。
品川津では、諸国の物産、時には唐物さえ、
何でも、調達出来たはずだ。
還りの川船には、巨大な常滑の壺や、
時には、明の染付、天目茶碗などの高級品も載せられ、
市庭に持ち込まれることがあったと想う。
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青梅宿とも共通するような、山間の宿らしい風情が愉しめて…
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かと謂えば、都市的な場を想起させる、小祠にも出逢える。
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前方に観える特徴的な山容は「城山」と呼ぶ。
「城山」と云えば、決まって、中世山城跡であることが多い。
市庭、宿、街道、そして中世城館と、役者が揃ってきたわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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