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2015年6月 7日 (日)

小野路宿にて(11)

B15060601

小野社の尾根の南側「万松寺谷戸」を見下ろしながら、
小径を辿る。
この尾根で、中世世界の小野路宿を一寸垣間観たけれど、
ここで、さらにイメージを膨らませてみる。
話は、今年、没後四百年を迎えた家康のことである。
元和三年(1617)三月、前年死去した家康を、久能山から、
日光へ改葬するため、棺を乗せた輿と行列が、
東海道と日光街道の経由地として、小野路宿を通過した。
その際、大規模な道路改修と、宿の町立てが行われ、
現在の小野路宿の基礎が出来上がったと考えられる。
死後、権現となった家康が、当地をわざわざ通ったのには、
別して、理由があったと想いたい。
天正十八年(1590)八月、秀吉の小田原攻めの直後、
関東移封が決まった家康は、間髪を入れず、現地入りを実行する。
彼がまず目指したのは、武蔵国府・府中だったと云われる。
(ある意味、江戸入りの「方違え」と取れないこともない)
江戸城の整備が成るまでの、短い滞在だっだようだが、
府中には「御殿」が用意されたらしい。
ついでながら、いよいよ江戸城の準備が整うと、
当時、日比谷辺りに居た、弾左衛門が一門を引き連れ、
府中へ道案内に参上したと云う挿話もある。
話をもとへ戻すが、どうも、家康が府中を目指した道筋と、
同じだったのではないだろうか。
家康の関東入府「御討入り」は、後の天下への運を開く、
「吉例」であった。
同様に、死後の日光への改葬も「吉例」でなくてはならず、
それを「踏襲」するのが、子孫たちの義務でもあったわけだ。
B15060602
「万松寺谷戸」の側から観た、小野社の尾根。
民家の直ぐ上の林間を、小径が通っている。
B15060603
やがて、六地蔵が並ぶ「追分」が現れた。
左手の谷戸へ下る道を進めば、
B15060604
臨済宗・建長寺派「小野山・万松寺」の門前に至る。
(捨身 Canon G1X)

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