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2015年6月の記事

2015年6月30日 (火)

桐生へ(10)

B15062901

石橋の結界の先は「彦部家屋敷」西隅に当り、聖域である。
左手奥に八幡の石祠、右手手前に稲荷の石祠が在る。
八幡は彦部家の氏神と云うことになっているから、
「源氏」の位置付けなのだが、本来は「高階姓」(たかしな)らしい。
高階氏は、天武天皇の皇子、高市皇子に発し、
彼の長屋王を経て、臣下へ列し、高階姓を名乗った。
「彦部家千三百有余年」とは、そのことを云うのであろう。
都では、中下級貴族に過ぎなかったが、平安中期に一族が、
受領に任じられて地方へ下り、下野国の地で清和源氏の嫡流、
頼信、義家と邂逅、縁戚関係を結ぶに至る。
前述のように、源氏の血が入ったと称するわけだ。
その後、義家の子、義国より、武家として、累代の家人に連なる。
義国は下野国で根を張り、足利氏、新田氏の祖となった。
高階氏は、足利氏に仕え「高氏」を名乗る。
南北朝期に尊氏の執事、高師直を出して知られた家系だ。
彦部家は、その「高氏」から分かれた。
鎌倉中期、陸奥の紫波郡彦部郷に領地を得たのに伴い、
現地へ赴き、爾後「彦部氏」を名乗るようになる。
氏神は「竹ヶ岡八幡」とも呼び、足利、新田氏の嚢祖、義国が、
石清水八幡を勧請したと云う伝承に基いて、
彦部家が代々、屋敷内に護持、崇敬してきた。
B15062902
石橋を潜った遣水は、このように主屋の裏へ引き入れられる。
先刻から、密かに想っていたのだが、
この辺り、屋敷の西側後背地は、ホタルの生息には、
好適なのではないだろうか。
ご当主に聞いてみたところ、
やはり、かなり出て居るとのことだった。
B15062903
主屋の裏側はこうなっている。お住まいなのだが、
手前の家屋は、昭和初期の「寄宿舎」だと云う。
つまり、彦部家では、近代まで織物業を営んでおり、
「女工さん」が、常時三十人ほど住み込みで働いていたようだ。
彦部家の近代史についても、一寸語る必要がありそうだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月29日 (月)

桐生へ(9)

B15062801
さて、あらためて、主屋南側の庭を観てみよう。
規模は大きくないが、室町期に京都の武家で流行った、
池、泉、石、橋を配した回遊式の庭園と云われる。
中世居館の遺跡から、よく発掘されるものだ。
既述のように「彦部家」は、永禄の変(三好の乱 1565)で、
当主親子が討死した後、幼少の継嗣が、既に京都より、
当地に下っていた当主の弟を頼り、土着した。
鎌倉期より、分家が地頭として治めていたのだが、
その跡を継承する形で、同じ場所に館を構えたようだ。
それが、現在の「彦部家屋敷」と考えられている。
B15062802
現ご当主の案内で、さらに庭の奥へ向かう。
背後の山裾に面した、屋敷の西側だ。
B15062803
山裾には、お約束通り、湧水があり、
屋敷内へ引き込み、池、水掘、生活用水に使われる。
斜面を覆う美しい竹林は「彦部家の竹ヶ岡の竹」として、
質の良さで知られ、慶長五年(1600)関ヶ原合戦の折、
近隣の小山に在陣した、徳川勢のために、
旗竿を用立てたと云う由緒がある。
B15062804
湧水から流れ出る遣水に、結界を示す石橋が架かる。
石橋は小さいながらも、優れた細工だ。
近年まで、バラバラの状態で、蔵の隅に置かれていたのを、
補修し、再び組み立てたのだそうだ。
此処より、屋敷の聖域になり、氏神と屋敷神が祀られる。
もとより、氏神は「彦部家」の嚢祖に深く関るわけで、
その云われについても、触れねばなるまい。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月28日 (日)

桐生へ(8)

B15062604

奥座敷の庭側縁先に扉があった。
主屋の構造から観れば、明らかに外となる。
そう、上客用の厠である。こういった設えも、古風なもので、
「彦部家屋敷」の高評価に繋がって居るわけだ。
B15062701
再び土間へ戻って、座敷の隣、広間を観る。
突き当たった壁面の上が神棚か。
B15062702
真ん中に囲炉裏が切ってあり、廻りに蓙(ござ)と円坐が敷かれる。
興味深いことに、当家の場合、東国風の竃(かまど)は無く、
西国風に、此処で座って、調理が行われていたようだ。
床は板ではなく、竹簀子(たけすのこ)になっているのも珍しい。
表奥の座敷が「晴れの間」であるのに対し、
家や近隣の人々の日常生活の場、所謂「褻(け)の間」であろう。
左手の引き戸の中は仏壇で、
今も、二十数代の位牌が納まっているそうだ。
B15062703
竃が無いから、土間は専ら作業空間に充てられた。
北隅には、厩(左の手摺の中)も在って、
馬二、三頭分のスペースが確保されて居る。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月27日 (土)

桐生へ(7)

B15062601
表座敷と奥座敷。現在は畳が敷き詰められいるが、
これは近世に入ってからで、創建時の天正期では、
必要に応じて、部分的に敷かれて居たのだと想う。
B15062602
南側の庭へ廻って、奥座敷を観る。
B15062603
奥座敷の西面は、丁寧に仕上げられた板壁になっており、
中世世界の「床の間」の原型である「押板」
(おしいた=壁面下に設置される、奥行きの狭い飾り台)が、
設えられて居る(掛け軸の下方)
古民家では、特に珍しい現存例だろう。
遅くとも、南北朝期頃には現れ、唐物(からもの=輸入品)の、
書画、茶器、青白磁などが飾られたりした。
14世紀中頃成立の中世絵巻「慕帰絵詞」に描かれた、
「押板」のある座敷を示して置く。
奥の「押板」上の壁に「歌聖・柿本人麻呂」の画像を掲げ、
「唐物」と思しき花瓶と香炉をあしらい、連歌会たけなわのようだ。
B15062605
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月26日 (金)

桐生へ(6)

B15062501

まず、土間へ入ろう。
主屋の規模は正面十八m、奥行約十一mと大きい。
B15062502
向って左半分を占める、表座敷(十二畳半)と奥座敷(十畳)
その隣の、囲炉裏が切ってある広間を示す。
表裏の座敷は、上客用の「晴れの間」であろう。
B15062503
「本当に古い」古民家では、所謂「大黒柱」が存在しない。
この主屋の場合、欅、栗、胡桃など雑木を用い、
径が不揃いな柱ばかりだが、もとより、中世建築の証しである、
B15062504
表座敷の障子の上に掛けられた槍が三本。
そう「彦部家」は、由緒正しき武家なのである。
特に、室町期を通じて、京都の足利将軍、
及び鎌倉の関東公方に、親しく近侍した「奉公衆」の一員だった。
嘉吉の乱(1441)で暗殺された将軍義教に、
最後まで付き従い討死。
或いは、永禄の変(1565)でも、夜討に遭った将軍義輝と供に、
「彦部家」の当主親子二人が討死と、波瀾万丈であった。
足利家に対する、これ程までの「忠実さ」は、
一体何処から来るのだろうか。
もう一寸、彼らの家系を辿ってみたい。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月25日 (木)

桐生へ(5)

B15062401

「長屋門」の脇を抜けて、屋敷内へ入る。
此処で、現ご当主の方のお出迎え受けて、
案内(あない)して頂くことになった。
そう、「重文指定・彦部家住宅」は、今も私有で、
子孫の人々がお住まいなのだ。
これもまた、驚くべきことであろう。
B15062402
振り返ると、正面が主屋だ。
江戸初期以降、何度か改築を経ているものの、
用材の炭素測定により、1580年(天正八年)創建と判明した。
やはり、普通の古民家と違って、古雅な佇まいを魅せる。
れっきとした中世建築と謂っていい。
因みに、石山本願寺が信長に降伏したのが、この年だった。
B15062403
ご当主より「彦部家」の、
遙か古代、白鳳時代千三百有余年前へ遡る、家系から、
その後、一族が辿った、有為転変、数奇な運命に至るまで、
縷々伺ったが、まぁ、追々と語って往こうか。
B15062404
さて、まずは、主屋である。
土間の入り口前に設えた、この小さな囲い。
何だかお判りだろうか。
古風な「厠」(かわや)なのだ。
屋外に置く遣り方は、中世世界のものに近く、
「歴博甲本・洛中洛外図」(16C前半)にも、
土塀にせり出している例が描かれる。
もとより、これは「家人用」で、
「客人用」は別に用意されているので、後述しよう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月24日 (水)

桐生へ(4)

B15062301

現存する「彦部家屋敷」の概要を示す。
中世世界の領主居館(南北朝~室町後期頃)の大概の条件は、
揃っているようだ。
屋敷は山裾のやや高みに立地し、後背地の山上に、
小規模ながら、山城「詰めの城」を有する。
方形状の敷地は、山側を除き、一重の土塁、空堀、
水掘、用水で囲まれ、さらに外周を親族、譜代家臣の、
屋敷、菩提寺が取り巻く。
後背の斜面には、水源の湧水と広大な竹林が付属、
西隅は、氏神と屋敷神が鎮座する聖域になっている。
「南面」する入り口「大手口」と主屋、
門前に領主直営「手作り地」の「前田」「門田」があり、
その前を古道(右端上下)が通る。
ほぼ、定石に適うと謂っていいだろう。
今まで、こういった例は、発掘調査で出てきた、
遺構をもとに、語らざるを得なかったわけだが、
今回は、全て稀有な、現存例であることが大きな違いなのだ。
B15062302
「長屋門」脇の通用口(門は上士訪問時などに使う)より、
来たりし方を振り返る。
B15062303
「長屋門」左側に廻らされた水掘。
屈曲しているのは、土塁上から「横矢掛かり」(側面攻撃)
をする工夫である。
「大手口」ならではの、堅固な構えだろうか。
B15062304
「長屋門」中より「大手道」を観る。
かつて、この道が使われたであろう、
屋敷の「晴れの場面」を想ってみたりした。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月23日 (火)

桐生へ(3)

B15062201

土塁越しに、茅葺屋根が覗く。
B15062202
案内板の立っていた角を曲がると、広い休耕地があり、
その向こうに、土塁と石積み、生垣に囲まれた屋敷が観える。
左手に、美しい「長屋門」か。
目指す「彦部家住宅」だ。
手前の休耕地は、かつて「前田」とか「門田」(かどた)と呼ばれた、
領主の直営田が在った場所かもしれぬ。
中世世界の領主居館の景観がよく保存されているようだ。
B15062203
「長屋門」へ続く「大手道」
今は通れないけれど「古道」の風情を残す。
左側の用水と石積みも悪くない。
B15062204
「長屋門」は、江戸中期(17世紀中葉)建立だ。
一面「京壁」の土壁と、茅葺屋根の優美な角度、
世に「長屋門」は多かれど、優れた「作品」だと想う。
もとより、重文指定になっている。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月22日 (月)

桐生へ(2)

B15062101

桐生を訪ねたのは、現存する稀有な(発掘されたのではない)
中世の領主居館の遺構=「彦部家住宅」(ひこべけ)
探索するためである。
場所は桐生市の南端で、足利市や太田市との境目に程近い。
その為、JR桐生駅からは、意外に遠いのだ。
一時間一本の、コミュニティバスを二台乗りついて往くしかなく、
さらに二時間費やし、午後三時頃、やっと目的地に辿り着いた。
閉館時間が四時なので、ぎりぎりのところだった。
バスを降りて、歩を進める。
山裾に、こんもりとした杜が観えてきた。
B15062102
近づくと、何と空堀と土塁だった。
よく、原形を保って居る。
これは、想ったより期待出来そうだ。
B15062103
基壇に石積みを施した、堂々たる高さの土塁だ。
もとより「現役」のものは極めて珍しい。
土塁に沿って、100m一寸ばかり進む。
B15062104
案内板の立つところまで来て、その角を曲がれば、
入り口が観えてくるはずだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月21日 (日)

桐生へ(1)

B15062001

梅雨の晴れ間、久しぶりに利根川を超え、関東平野を北上した。
B15062002
田植えを終えたばかりの水田を抜け、
足利市を過ぎて、目指したのは桐生市だった。
其処に、意外なものが残っていたのだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月18日 (木)

小野路宿にて(22)

B15061601

江戸後期の小野路宿を描いた「村絵図」だ。
今回の投稿初回で紹介した案内図の原画になったものだろう。
元和三年(1617)家康の日光改葬時に、この町立てと、
街道の整備が出来上がったと想われるが、
天正十八年(1580)の秀吉小田原攻め以前の、
小田原北条氏治世下でも、既に、ほぼ同じ宿が在ったと、
考えていい。図中、左上から、右下に抜ける、
大山⇔府中道は、そのまま小田原⇔府中道として、
生きていた。その後、八王子道、神奈川道、
布田道と、追加されて往ったのだろう。
左上辺の小野社、万松寺の位置も変わらないが、
「小野路城址」と「小町井戸」は描かれてないようだ。
ただ、鎌倉期以前、その場所に古道が通り、
「宿」が在った可能性がある。
同じく図中、濃い青色の部分は、谷戸田か湿地で、
谷戸奥には、湧水を利用した「溜池」が認められる。
今頃の季節なら、蛍の大乱舞が観られたはずだ。
B15061602
宿名主、小島氏屋敷(現資料館)の玄関先で、
御嶽山のオオカミの御符を見つけた。
何故か懐かしく、ほっとするものを感じる。
B15061604
谷戸奥へ誘うの小径と、
B15061608
収穫間近の麦畑。
寓居最寄りに、こんなワンダースポットが隠れているとは、
正直、予想していなかった。
まだまだ探索が足りぬけれど、とりあえず、次の機会へ譲ろう。
想い立てば、直ぐ往けるのだから…
*次回の探索地が決まるまで、暫し休息を入れ、再開します。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月17日 (水)

小野路宿にて(21)

B15061606

今回は番外編哉…
今夕、多摩丘陵の「某谷戸」奥で、蛍を観る。
僅か「十頭」ほどで、乱舞とは往かぬが、
居るには違いないのだ。
大きな「ゲンジボタル」である。
案内者(あないじゃ)の「蛍の翁」が語るには、
「彼らは、里と山の境目に出現する」とのことだ。
手持ち撮影なので、この程度の捨身でご容赦を…
(上掲=画面中をクリック、拡大してご覧下されば幸いです)
「小野路宿」 纏めに入ろう。
B15061605
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月16日 (火)

小野路宿にて(20)

B15061501

さて、尾根道が次第に明るくなってきた。
そろそろ、谷戸へ出そうだ。
B15061502
小野路宿南側の「万松寺谷戸」を西へ一つ山(小野路城址)
隔てた「奈良杯谷戸」に降る。
面白い名前だが、由来は判らない。
一説に、当地の方言で「並ぶ」→「ならばい」からきているとも云う。
谷戸奥には、炭焼き小屋が再現されていた。
体験学習なんかに使われるようだ。
B15061503
隣の斜面は「夏ソバ」の花が盛りだった。
その向こうに、栗の花か。
この時期、多摩丘陵の谷戸々では、よく観られる風景だ。
谷戸産の蕎麦は、どんな味なのだろうか。
B15061504
既に田植えは終わり、谷戸田の上を薫風が吹き渡る。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月15日 (月)

小野路宿にて(19)

B15061401

楠の古木だろう。まず、小祠の手前に二本。
B15061402
おっと、道を挟んで、向こう側に、もう一本だ。
やや引いたところから、観てみよう。
B15061403
やはりそうだったのか。
周囲の植生とは、明らかに異なり、
二本対で、関門の如く、道の両側に植えられている。
さっき観た「文字道祖神塔」の、本来の姿である。
かつて、往来する旅人たちを見守っていたのだろうか。
多摩丘陵の奥地、此処小野路宿界隈で、斯様な邂逅とは。
侮っていたかもしれぬ。
当地に口を開いている「中世世界への入り口」は、
想っていたより深く、底知れぬものだったわけだ。
B15061404
さらに、この道を辿り、何処かの谷戸へ降りてみようか。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月14日 (日)

小野路宿にて(18)

B15061301

小野路宿の西側、小野社先の、谷戸と尾根上には、

網目状に小径が走り、どうもその中に、

古道のルートが隠れているようなのだ。

だが、それが中世世界の、所謂「鎌倉道」かどうかを、

指摘するのは難しいだろう。

おそらく、この辺りを古道が通り、その遺構が地下に

埋もれていたとしても、難しいことだ。

小野社下から、万松寺門前に至る、谷戸の山裾を通る参道は、

最近まで生きていた、古道と認めていい。

問題は「小野路城址」と「小町井戸」の間を通る道だろうか。

中世前期の領主居館の前面を中世古道が通るケースは多いし、

城の「水の手」とされる「小町井戸」も、古道沿いに置かれる、

人馬用の泉の跡と考えれば、同様の例は、よく見つかるものだ。

従って、上記の区間を古道のルートと捉えると、

近くに、中世前期の「宿」(小野路宿の前時代の)が在っても、

(現在は樹林に覆われているが)おかしくないことになるわけだ。

B15061302

来たりし方を振り返ってみたところ。

右手へ登って往く道は、この先で、もう一度右に折れ、

クランク(筋替え)を呈して居る。

B15061303

切通しを抜けると、紫陽花が待っていた。

鎌倉の山中みたいだ。

B15061304

さらに、鬱蒼とした照葉樹が二本、その裏に小祠が垣間観える。

クスノキか、或いはタブノキか。

古木らしい。一寸気になるな。

(捨身 Canon G1X)

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2015年6月13日 (土)

小野路宿にて(17)

B15061201

中世世界の、切通し道の掘り込みの深さは、
こんな程度でなかったか。
かなり高い崖になっていることが多い。
従って、この切通し道が開削されたのは、
最近のことだろうと想う。
B15061202
切通しを出ると、辻に出逢う。
右側の路肩に道祖神が祀られていた。
掘り込まれているので、崖上になっているが、
もとより昔は、路面と同じ高さであったはずだ。
B15061203
廻りの崖上から、やや引いて、辻を観下ろしたところ。
手前にも、道(右手へ登る坂)が通じるが、
どうも、クランク(筋替え)臭い。
B15061204
道祖神をアップで観る。
所謂「文字道祖神塔」で、登って確認は出来なかったが、
近代のもののようだ。元は自然石だったかもしれぬ。
右側に、五輪塔の「水輪」(球形)と、
「風輪」(半球=上掲では上下逆になっている)らしき、
残欠が積まれていた。残念ながら、これだけで、中世のものと、
判別することは出来ない。この路傍の五輪塔残欠をもって、
「この道が鎌倉道である」と判断するのは、無理筋だろう。
全く別に、根拠を示して往く必要がある。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月12日 (金)

小野路宿にて(16)

B15061101

「小野路城址」直下を通る尾根道を、やや東(小野路宿方向)へ、
戻ると、崖下に小さな泉がある。「小町井戸」と呼ぶ。
都を落ちた、彼の「小野小町」が当地で病を得たが、
この井戸の水で、平癒したと云う伝説が残る。
彼女は、小野氏の人と想われているので、小野姓を称した、
横山党の絡みで、このような物語が生まれたのであろうか。
「小野路」の地名も、戦国期以前は「小野地」或いは「小野池」
と表記されていたらしい。古代の武蔵国「小野郷」は、
府中の一宮(現多摩市の小野社)辺りと云われていたから、
「小野郷」へ至る道が通じる場所、即ち「小野路」となった、
とする説もあるが、些か後付けの感も否定できない。
一寸気になるのは、付近に「池」の付く「小字」が多いことだ。
谷戸奥に「小野の池」なんて、あったのかもしれぬ。
いずれにせよ「小野」の名は残るわけで、
古代小野氏の支配地域と、何らかの関りは認めていいだろう。
B15061102
「小野路城址」を降り、再び作業小屋の前を通って、
B15061103
さらに西へ、尾根道を辿ってみた。
今は、鬱蒼と樹木が茂って居るが、中世世界では、
土がむき出しの、丸坊主に近い状態だったろう。
町屋が建ち並んでいた可能性だって有り得る。
まぁ、その理由については、後述しよう。
B15061104
いつの間にか、道は舗装され、切通しが観えてきた。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月11日 (木)

小野路宿にて(15)

B15061001

気持ちのよい尾根道から、やや盛り上がった高みが頂で、
そこが「小野路城址」らしい。
参道のような坂道を辿り、登ってみることにした。
小さな鳥居と社が観えてきた。
B15061002
城址へ坂道を振り返って観たところ。
B15061003
頂上は平場になっている。
中世前期(平安末~鎌倉)の舘跡であるから、
構造は比較的簡素で、ほぼ方形の土塁と空堀で囲まれた、
空間に、居住建物が建って居た感じである。
造られた当初は、一つだった方形空間が、
時代が下がるにつれて、幾つか追加され、
規模が拡大して往ったのだろうか。
周囲にも、段々状の平場らしき場所が観受けられる。
中世世界の小野路宿周辺は「小山田荘」(おやまだ)と呼ばれた。
「小山田別当」を称した、小山田有重は、秩父平氏の出で、
源氏累代の家人、畠山重忠は甥にあたる。
「小野路城」は有重の二男忠重が棲んだと伝わる。
その後、小山田氏は、畠山重忠の乱に連座して、
後嗣の三男、稲毛(小山田)入道重成が滅ぼされ、断絶する。
小山田荘は、やはり北条得宗領へ併呑されたようだ。
万松寺が「北条三つ鱗」を寺紋とするのも、合点が往くわけだ。
B15061004
平場の後背に土塁めいた遺構を見つけた。
土塁の下が一寸窪んでいたが、空堀の痕跡かもしれない。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月10日 (水)

小野路宿にて(14)

B15060903

万松寺谷戸奥の斜面を登る。
竹林と、若干の照葉樹が混じる雑木林だ。
小野路宿の辺りが、標高70m前後と云うから、
比高50mぐらい、尾根の頂上だと120m程度か。
でも、季節が暑くなってきたので、藪や蟲が問題になる。
そろそろ「谷戸探索」は、晩秋まで、お休みだろうな。
B15060904
尾根道に出た。
こんな気持ちの良い小径が隠れていたのだ。
B15060905
やや鞍部へ下れば、作業小屋があり、
再び、登り返すと…
B15060906
「小野路城」と標す案内板が立っていた。
平安末期から、鎌倉期にかけて、
当地を領した「小山田氏」の居館跡と云う。
便宜上「城」と呼ぶにしても、
戦国期の山城とは、かなりカテゴリーが異なる。
やれやれ、同じき中世世界と雖も、
一気に八百年前へ遡ったわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月 9日 (火)

小野路宿にて(13)

B15060801

小野路宿の西側、小野社の尾根を隔てたところに、
「万松寺谷戸」と呼ぶ、比較的大きな谷戸があり、
東京都の「図師小野路歴史環境保全地域」に指定されている。
万松寺の境内から、谷戸側へ降りてみることにした。
車が入れるのは、此処までだ(上掲)
B15060802
谷戸の在家は、日当たりを確保出来、風水害を避け易い、
廻りの山裾の、やや高みを削平した場所に集まっている。
大抵の場合、後背の斜面には、生活用水を得る沢水が湧き、
竹が植えられ、土砂災害を防ぐ備えもある。
柿などの有用な樹木は前庭に、
自家用の水田や畑は、屋敷の前面に拓かれる。
こういったやり方は、中世後期より続くものだと想う。
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さらに谷戸奥へ…
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谷戸の入り口方向を振り返って観たところ。
体験学習の田植えが行われていた。
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谷戸奥の栗林に取り付いた。
これから、斜面の竹林を突っ切って、
古道が通ると云う、尾根を目指そう。
藪漕ぎだろうな。やれやれ…
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月 8日 (月)

小野路宿にて(12)

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万松寺の門前、六地蔵脇には、石祠二基、
そして「万松寺道」と標された石柱を認める。
つまり、今辿ってきた、小野社尾根の小径は、
参道であり、古道であった可能性が高いわけだ。
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境内に入ると、まず「榧」(かや)の古木が目に付く。
樹齢四百年ぐらいは、往くであろうか。
もとより「榧」は香木、あるいは仏像の材となる霊木だ。
B15060703
万松寺の開山は、鎌倉末期の元徳二年(1330)と云う。
臨済宗建長寺派(北条氏が最初に開山)に属するからか、
同派の寺院に、どうも鎌倉の主、北条氏、或いは足利氏の、
影がちらつくのは否定出来ない。
同時期、武蔵国守を務めたのは、金沢北条氏、
守護職と共に、北条得宗家の指定席だった。
同国中に、北条一族の所領が散りばめられていたはずで、
彼らの足跡が当地に残っていたとしても、驚くには当らないのだ。
B15060704
境内裏の尾根斜面に広がる墓域。
最奥部に歴代住持の墓所を見つける。
その中に、中世(室町中期以降か?)の五輪塔が、
一基混じっていた。
やはり、この寺には、
中世世界の小野路宿へ入り口が隠されているかもしれない。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月 7日 (日)

小野路宿にて(11)

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小野社の尾根の南側「万松寺谷戸」を見下ろしながら、
小径を辿る。
この尾根で、中世世界の小野路宿を一寸垣間観たけれど、
ここで、さらにイメージを膨らませてみる。
話は、今年、没後四百年を迎えた家康のことである。
元和三年(1617)三月、前年死去した家康を、久能山から、
日光へ改葬するため、棺を乗せた輿と行列が、
東海道と日光街道の経由地として、小野路宿を通過した。
その際、大規模な道路改修と、宿の町立てが行われ、
現在の小野路宿の基礎が出来上がったと考えられる。
死後、権現となった家康が、当地をわざわざ通ったのには、
別して、理由があったと想いたい。
天正十八年(1590)八月、秀吉の小田原攻めの直後、
関東移封が決まった家康は、間髪を入れず、現地入りを実行する。
彼がまず目指したのは、武蔵国府・府中だったと云われる。
(ある意味、江戸入りの「方違え」と取れないこともない)
江戸城の整備が成るまでの、短い滞在だっだようだが、
府中には「御殿」が用意されたらしい。
ついでながら、いよいよ江戸城の準備が整うと、
当時、日比谷辺りに居た、弾左衛門が一門を引き連れ、
府中へ道案内に参上したと云う挿話もある。
話をもとへ戻すが、どうも、家康が府中を目指した道筋と、
同じだったのではないだろうか。
家康の関東入府「御討入り」は、後の天下への運を開く、
「吉例」であった。
同様に、死後の日光への改葬も「吉例」でなくてはならず、
それを「踏襲」するのが、子孫たちの義務でもあったわけだ。
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「万松寺谷戸」の側から観た、小野社の尾根。
民家の直ぐ上の林間を、小径が通っている。
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やがて、六地蔵が並ぶ「追分」が現れた。
左手の谷戸へ下る道を進めば、
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臨済宗・建長寺派「小野山・万松寺」の門前に至る。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月 6日 (土)

小野路宿にて(10)

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小野社が鎮座する、尾根の突端は、
雑木林と竹藪に覆われ、近世の「屋敷墓」が点在していた。
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楠の古木や、何に使われたか判らない平場にも、
出会したりする。
地表面に、板碑の破片が見つかるのは、
中世の葬送地が、周囲に埋もれてるからであろうか。
平場も、戦時の避難所として使われた、
「百姓の山城」跡ではないか、なんて想ってみたりした。
谷戸の底に「宿」、廻りの尾根を走る古道、
「宿」を見下ろす、西方の尾根上には、
「氏神」と祖先が眠る霊地が鎮まり、そして「山城」控える。
そんな、中世世界の「ミクロコスモス」のイメージが、
浮かび上がってくるわけだ。
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この尾根の、南側の腰部に、
一寸、古道めいた小径が付けられている。
「万松寺谷戸」(まんしょうじやと)を見下ろしながら、西へ進める。
いい風情なので、辿ってみよう。
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あの緑のトンネルを抜けて、いざ「異界」へ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月 5日 (金)

小野路宿にて(9)

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左手の小さな階段を伝わって、楠の下に辿り着く。

何かありそうな、と謂うか、

仔細を知って居そうな、古木だった。
もとより、人が植えたものである。
樹齢三、四百年は経っているだろうか。
辺りを観遣ると…
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やはり、傍らに「屋敷墓」が並んでいた。
さらに注意深く、楠の根元を調べてみる。
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おっと、気になる石片と、花を手向けた跡を見つけた。
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こちらにも。
表面は風化して、判読出来ないが、
秩父の青泥片岩らしく、特徴的な三角形の頂が目に付く。
おそらく、板碑の破片だろう。
近世の「屋敷墓」とほぼ同じ場所で、
楠の古木と、中世の板碑片が見つかったことから、
この場所が近世以前より「霊地」であった可能性が出てきた。
楠の古木は、中世世界の小野路宿へ誘う、
「案内者」(あないしゃ)だったわけだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月 4日 (木)

小野路宿にて(8)

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小野神社より望む、小野路宿の全景。
西側から、北東方向を観たところだが、ちょうどその方角が、
武蔵国府・府中に当り、中世世界の幹線道路が通じていたと云う。
この谷戸の何処かを抜けて、尾根に取り付き、
南西へ向かい、鎌倉に通じていたのであろうか。
この付近の山中に「鎌倉道」と云われる古道が、
幾つか指摘されているが、実のところ、かなり疑わしい。
仮に、中世古道の遺構が存在するならば、地中1m近くに、
埋もれているはずであろう(出土例はある)
所謂「鎌倉道」の言説は、一次史料を欠き、
全くの憶測の範疇に入る。
筆者は、現段階では、実証研究に馴染まないと考えるので、
これ以上触れまい。
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本殿裏の稲荷社だ。
山側を振り返ると…
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集落の「屋敷墓」が広がっていた。
墓石を確かめるに、小野路宿に並ぶ旧家の名字が目立つ。
やはり、今でも、宿の祖霊が鎮まる霊地なのだ。
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小野社のある尾根の突端は、
既に廻りをかなり削られてしまっているが、
崖っぷちに、辛うじて楠の古木が残されていた。
当然、気になるわけで、登ってみることにした。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月 3日 (水)

小野路宿にて(7)

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武蔵国には、三つの「小野神社」がある。
あとは府中市内の小社だけれど、各々の由緒については、
ここでは詳しく触れない。
いずれも、古代の小野氏と中世の横山党に関るが、
現状では、伝説と憶測の「堂々巡り」を出られないからだ。
ただ、小野路宿の小野社の場合は、
当地の鎮守、あるいは氏神と看做していいと想う。
そこで、問題になるのが「小野路」の地名の由来だろうか。
話を江戸後期から、中世へ遡らせねばならぬが、
もとより、史料希少であるから、一寸厄介だな。
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小野社は、小野路宿の西側、尾根の突端に鎮座する。
斜面の裾を何段かに削平して、本殿と摂社が建つ。
鎮守、氏神の立地としては、まず穏当で、
中世世界から、祖霊が鎮まる場所だったとも考えられる。
本殿裏の稲荷社(上掲)より、南隣りの「万松寺谷戸」
(まんしょうじやと)を望む。
後ほど探索してみよう。
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本殿の正面から、小野路宿を見下ろしたところ。
宿全体がよく見渡せる。これも大事な条件の一つだろう。
手前の蔵は「小野路宿里山交流館」の「角屋」だ。
そうそう「小野路うどん」のことだ。
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多摩丘陵も、武蔵北西部一帯と同じく、
「うどん・粉食文化圏」に属するのは論を待たない。
各地での例に倣い、郷土食=うどんを試してみた。
上品な出汁、洗練された喉越しのいい細麺だった。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月 2日 (火)

小野路宿にて(6)

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「大山道」より、宿の入り口方向を振り返る。
交差点の角(左側)に立つ、古民家風の建物は、
町田市の肝煎りで、昨年オープンした「小野路宿里山交流館」だ。
B15060102
江戸後期、小野路宿には「角屋」(かどや)「福島屋」「池田屋」
「煙草屋」「河内屋」「中屋」の六軒の旅籠が在ったと云う。
その中の「角屋」の、母屋、蔵、長屋門を改修、
ギャラリーやイベントスペース、物産店として再生させたわけだ。
館内で食べられる「小野路うどん」は、わりと往けるので、
後ほど紹介しよう。
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「角屋」の直ぐ裏手が、宿の鎮守「小野社」である。
まず、欅の傍らに「地神塔」が祀られる。
こういった石塔も、道祖神と同じく、集落の境界=結界を示す、
指標に使われることが多い。
B15060104
「地神塔」脇を入れば、参道が現れる。
さて、石段だ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年6月 1日 (月)

小野路宿にて(5)

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宿名主・小島鹿之助屋敷内より観る「小野路宿」
江戸期の多摩丘陵一帯は、ほぼ幕府直轄領に属し、
村ごとに、旗本等へ宛がわれていた。
細分化された領地は、其々せいぜい数百石程度であったろう。
もとより、各村には、武士など一人も居ない。
村名主が行政一般(徴税と司法警察)を請け負うのである。
名主百姓層には、戦国期の小田原北条氏施政下より続く、
「名家」が多く、名字帯刀、門構え、玄関を許され、
かつての土豪としての誇りを保っていたようだ。
彼らは日常、租税の算定や決算など、公文書作成に、
携わり、高い学識と問題意識を培っていく。
江戸後期になると、江戸近郊の治安が問題になり、
犯人捕縛に動員される、村人たちの手に余る事態が生じる。
そこで、百姓(名字を持ち、自立する)の二男三男たちに、
武術を習わせる、気運が高まって、
幕末期に新撰組を生む素地を用意するわけだ。
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きれいに修復された蔵、戸口の上に、
武州御嶽社の「狼の御符」が五枚貼られていた。
当地にも「御嶽講」は生きているようだ。
B15053103
「小野路宿」南側の入り口に至る。
宿の鎮守「小野社」と浄土真宗の寺があった。
宿の入り口に、宗教施設を配する定石に従えば、
こちら側が「上宿」と云うことになる。
B15053104
此処で街道は「大山道」と「神奈川道」に分かれる。
右手へ折れる「大山道」(上掲)のほうは、お約束通り、
クランク(筋替え)を呈する。
さて「小野社」へ登ってみよう。
(捨身 Canon G1X)

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