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2015年7月の記事

2015年7月31日 (金)

説教節「をぐり」を読む(26)

B15073001

漂着した照手姫を怪しみ、散々に打擲する漁師たちを、
止めたのは「漁父」(むらきみ=村君)の大夫である。
「村君」とは、古代より村の長を指し、
ここは漁村なので「漁父」を当てたのか。
漁船や漁網を所有し、多くの漁師たちを統べる。
もとより、この浦では、一目置かれる存在で、
しかも「慈悲第一」の人だった。
「姫の泣く様子を窺えば、魔縁化生の者であろうはずがない。
 何処からか継母に虐めれて、海へ流されたのだろう。
 それがしには子が無い故、末々の頼りに養子としよう。
 是非、譲ってくれまいか」
彼は姫を我が宿へ連れ帰り、老妻に引き合わせる。
「なあ、姥よ。浜よりこの子を連れてきたぞ。
 大事に養って給われ」
「大夫殿よ。欲しいのは力仕事が利く、十七、八のわっぱじゃ。
 このようなか弱い姫など、もつがうら(六浦津だろう)の商人へ、
 売り飛ばせば、銭一貫文や二貫文、容易う手に入るわ。
 それこそ、頼りになる養子と云うものよ」
さても嘯く、欲深か婆様の登場だ。
姫の運命や如何に、と来たところで、
前回気になった、沿岸の漂着物のことについて、
一寸触れてみたい。
漂着物、漂着船、その積荷を「寄りもの」「寄り船」と呼ぶ。
浜は、この世とあの世の境界であり、異界への出入り口だった。
日々寄せる来るものは、異界からの便りとも考えられ、
吉兆、或いは凶兆を示すものとされた。
原則、浜は「無主」の」「入会」で、
現地の人々が「寄りもの」を自由に出来る慣習があったようだ。
照手姫の場合は、不吉な外来者と看做されたが、
天文十二年(1543)小田原北条氏治下の小田原の浜に、
打ち上がった大亀は、吉祥として称揚されている。
寛喜三年(1231)六月、鎌倉は沿岸に漂着する船の、
積荷を現地の地頭が押領するのを禁じた。
上記の慣習を盾に取った、積荷の強奪(一種の海賊行為)
に手を焼いていたのだ。
果して、この禁令に効果があったのか判らない。
「をぐり」が語られた戦国期に至っても、
各地で根強く続いていた様子がよく判るわけだ。
(捨身 Canon S110)

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2015年7月30日 (木)

説経節「をぐり」を読む(25)

B15072902

流れ往く牢輿の中で、
照手姫は、西方へ向かって手を合わせ、
一心不乱に、観音経の文句を唱え続ける。
「五逆消滅、種々浄罪、一切衆生、即身成仏…」
(五逆の大罪は消滅し、様々な罪を浄め、一切の衆生は、
 此の身の儘で仏と成る…)
「願わくば、よき島へお上げになって給べ」
観音も哀れと思召したのか、
やがて牢輿は「ゆきとせが浦」へ吹き寄せられた。
「ゆきとせが浦」と云うのは、何処だか判らない。
相模湾沿岸の某所であろうか。
B15072901
浦の漁師たちが、寄せ来る牢輿を見つけ、
口々に云い合う。
「何処かで祀って流したのだ。観て参れ!」
「おい、出入り口が無いぞ」
「なれば打ち破ってみよ」
何らかの祈祷か供養で、
水辺に形代を流す風習があったのだろう。
或いは、熊野の補陀落渡海のようなものをイメージさせようか。
B15072903
早速、櫓櫂を振るって、打ち破ってみると、
中には、然もか弱き風情の姫一人、
涙ぐみながら、座っていらっしゃる。
「やはりそうだったか。
 この頃、ことのほか不漁だったのは、その女のせいよ。
 魔縁化生のものか。将又龍神のものか。
 何者か申さねばこうしてくれよう!」
と漁師たち、櫓櫂で姫を散々に打ち据える始末である。
すると「のう船頭さん。如何したのかな」と、
声を掛ける人があった。
(捨身 Canon S110)

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2015年7月29日 (水)

説経節「をぐり」を読む(24)

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嘆き悲しむ女房、召使いたちに、
「名残惜しきは尤もなれど、
 これ以上、浮き世に未練を残したくありません。
 今は鉦鼓叩き、念仏申して、
 疾くゝ末期を遂げさせ給べ」と諭す照手姫。
鬼王、鬼次兄弟、相模川の川面に小船を降ろし、
姫を乗せた牢輿を積んで漕ぎ出した。 
艪の音に驚いたのか、ぱっと飛び立つ鴎や千鳥、姫御覧じて、
「千鳥でさえ、友を呼ぶものを、
 この私は、誰を頼りにをりからが淵へ急ぐかの」
程なく船はをりから淵に辿り着く。

B15072801

兄弟、この期に及んで、何を迷ったか、
此方に沈めん、彼方へ沈めんと、なかなか決心がつかない。
兄の鬼王、弟の鬼次へ囁くに、
「なあ鬼次よ。牢輿の中の姫の御姿を観参らせば、
 日出とともに蕾となる花の如くなり。
 一方、我ら両人と申せば、
 日没とともに散る花の如くなり。
 いざ、お命をお助けしよう。
 姫を逃した咎で、如何なる罪科に問われようとも、
 其はそれ、よいではないか」
「そのような仕儀ならば、お助けいたしましょう」
兄弟は牢輿の重石を切って外し、そっと流れに押し出すのだった。
B15072803
(捨身 Canon S110)

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2015年7月28日 (火)

説経節「をぐり」を読む(23)

B15072603

鬼王、鬼次兄弟、口々に漏らすに、
「すまじきものは宮仕えとは、よく云ったものよ。
 お命じなったのは御主君、手に掛けるのもその御子。
 血を分けた親でさえ、子供に背いて殺される世の中だ。
 進退ここに窮まりて、是非も無し」とて、
まずは、いぬゐの局へ参り、
照手姫に事の次第を申し上げる。
「小栗殿と十人殿原は、もはやお果てになりましたぞ。
 斯くなる上は姫様も、御覚悟なさいませ」
照手姫、涙に咽びながら、
「何を申すか兄弟。いろいろお引止めしたのに、
 今の憂き目の悲しさよ。この由を少しでも知ったならば、
 殿が最後に御抜きになった刀を取って、
 我が胸元へ突き立て、ともに自害したものを」
と搔き口説くも、詮無きことであった。
B15072604
遂に覚悟を決めた照手姫、形見の品々を取り出し、
「この小袖を兄弟たちに取らせます。
 私を想い出した折々に、念仏申して給べの。
 唐の鏡や手箱は、寺々へ寄進申し、
 我が亡き跡を弔うように…」
「浮き世に長らえば、想い残すことも多くなりましょう。
 されば疾く参ろう」と自ら牢輿にお乗りになった。
「我もお供を」と女房、召使いに至るまで、
輿に縋り、さめざめと泣き付く有様である。
(捨身 Canon S110)

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2015年7月27日 (月)

説経節「をぐり」を読む(22)

B15072601

涙ながらに、自らの夢見を語り、
小栗を引き留めようとする照手姫。
これが二人の永の別れ、否、波瀾万丈の道往きと、
邂逅の始まりとなるとは…
でも、夢は違わず、凶兆を示すものだった。
中世世界では、夢判じが盛んであった。
夢は予知夢であり、吉兆であるか、それとも凶兆であるか、
屡、解釈が重大な問題となった。
多くは、陰陽師や宿曜師が読み解きを担ったようだ。
そうそう、ついでながら、手照姫の夢の中で、
「逆さ鞍」「逆さ鐙」の馬に乗る小栗が出てきたが、
その意味するところを、突っ込んだ論考が見つからない。
凡そ、物事を「逆さ」に行うことが、死を連想させ、
忌み嫌われたのはよく解る。
案ずるに、死者を馬に乗せて送る際の、習俗であろうか。
或いは、馬に関る職能民の間で忌避された装いか。
今は、全く失われた習俗であるとすれば、興味深い。
さて、小栗と十人の殿原の最後の様子は、
彼らの葬送後のところから、読み継ぐことにしよう。
父横山殿は、鬼王(おにおう)鬼次(おにつぐ)と呼ぶ、
兄弟の家人を召し出し、申し付けるに、
「やあ兄弟よ。人の子を殺しておいて、我が子が無事であれば、
 都への外聞が悪い。
 ここは不憫だが、照手姫も、相模川のおりからが淵へ、
 重石を付けて、沈めて参れ!」
たとえ血を分けた親子兄弟の間でも殺し合う、
これも戦国の世の習い…と云ってしまえば、身も蓋もないが…
B15072602
(捨身 Canon S110)

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2015年7月26日 (日)

説経節「をぐり」を読む(21)

B15072501

横山殿父子と八十三騎の人々、再び集まって僉議するに、
「昨日の御慰労と称して、一席設け、
 予ていろいろの毒を仕込んで、
 七付子(しちぶす)の毒酒を盛るのが宜しかろう。
 如何に大剛の小栗と雖も、ひとたまりもござらぬ。のう父上」
またも、姦計を弄したのは、三男三郎である。
「よくぞ申した三郎」と父横山殿、
早速、小栗の居るいぬゐの局へ使いを立てる。
さすがに小栗、今度は渋るのは云うまでもない。
だが、執拗に使者が立つのこと六度に及び、
七度目は、三男三郎自らが使者に立つ。
「三郎殿の御使いとは祝着なり。是は参らねばなるまいて」
小栗の御運が尽きたとはこのことであろうか。
人は運命尽きると、智慧の鏡もかき曇り、
才覚の花も散り失せると云うが、実に哀れなことであった。
どうしても納得出来ぬ照手姫、小栗を引きとめて、
彼女が観た、不思議な夢を語り始める。
「まずは、重代家宝の鏡が鷲に破られ、
 御所用の鎧土通し(短刀)が鍔元から折れました。
 次いで、重藤の弓も、鷲が三つに折り、
 破片が上野が原に落ちて、卒塔婆へ変じました。
 とりわけ、最後の夢は不吉でございました。
 小栗殿と十人の殿原が、真白き浄衣(喪服)姿にて、
 逆さ鞍、逆さ鐙の馬に乗り、千人供養の僧たちを従え、
 幡、天蓋靡かせながら、北へ北へと去って往くのを、
 見送ったのですよ」
しかし小栗は、遂に得心ならず、ただ夢違えの呪文とて、
一首詠じ給い、横山父子のもとへ向かうのだった。
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(捨身 Canon S110) 

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2015年7月25日 (土)

説経節「をぐり」を読む(20)

B15072401

「かようなる大剛の馬には、鞍鐙は要らぬ」と小栗、
枷の鎖を手綱代りにかしんと噛ませ、
「えいっやっ」と鬼鹿毛に飛び乗る。
何やら、呪文を唱えると、鞭をばぱしんと打ち、
八町の萱原をまっしぐらに駆け出した。
十人の殿原、あまりの嬉しさに「やや」と誉めそやす。
一方の横山八十三騎の人々、今こそ小栗の最後を観んと、
待ち構えて居たのに、言葉も出ない有様である。
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「何なりとご所望の芸を」
小栗と鬼鹿毛、まさしく人馬一体となって、
屋根を駆け、松の木へ登り、
はたまた、裏返した碁盤の脚の上を渡るなど、
凡そ馬術の秘伝書の奥義を次々と披露する。
「おう横山殿、この馬、朝な夕なに調練して進ぜようか」
父横山殿はじめ、八十三騎の人々、溜息混じりながらも、
どっと笑い合うしかない。
しかし、事の想わぬ成行きに、横山殿父子は、
「何条、如何にしても、あの小栗めを打ち果さん」とて、
さらに謀りごとを廻らすのだった。
(捨身 Canon S110)

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2015年7月24日 (金)

説経節「をぐり」を読む(19)

B15072301

「なにがしの芸とは、弓か鞠か包丁(料理)か。
 力業、早業、双六も、お望み次第よ。横山殿」
「それがし不調法にて、左様な雅な芸は好みませぬ。
 ただ、誰も乗りこなした者無き奥州馬が一匹ござる。
 ほんの一馬場、如何かな」
「易きこと」
小栗、座敷をずんと立ち、厩へ向った。
しかし、目指す名馬は其処に居らず、
館の堀の外、遙か八町(873m程)も離れた萱野へ導かれる。
ふと見渡せば、辺りは彼の鬼鹿毛が喰い散らかしたと観える、
死屍累々の白骨野なのであった。
小栗に付き従う屈強な十人の殿原たちも、
「こは如何に小栗殿、厩どころか人を送る野辺ですぞ」と不審がる。 
「野辺ではないな。音に聞く鬼鹿毛とは、このことだ。
 押し入って婿入りした、この小栗を怪しからずと、
 人秣(ひとまぐさ)にして、喰わせてしまおうとの魂胆であろう。
 まぁ、これも一興じゃ」
B15072302
やがて一行の前に、鉄の格子を廻らし、何本も貫木を差した、
獄舎と見紛うばかりの厩が現れた。
その中に、八重の鉄鎖で枷を嵌められながらも、
さあ、人秣がやって来るぞと、
前足で地を搔き、雷鳴の如き鼻息を捲く、鬼鹿毛が居る。
小栗、この有様を御覧じて、
「飛んで火に入る夏の虫とは、よく云ったものだが、
 小栗は妻故に人秣になったと都へ聞こえれば恥でもある。
 ここは一つ、鬼鹿毛に説き聞かせよう。
 人喰いの罪業、後生大事と想うなら、
 一馬場でも乗せよ。然もあらば、お前が死んだ後、
 黄金の御堂を建て、身体を黒漆で塗り固め、
 馬頭観音として祀ろう。
 抑々牛は大日如来の応化身なり。さて鬼鹿毛は如何に?」
すると鬼鹿毛、小栗を人ならぬ者と観念したのだろうか、
前足を折り、伏し拝む風情にて、両眼より涙を零した。
つかさず小栗「されば乗れ」と、大力を持って、
鉄の格子貫木破り、八重の鎖を引き千切った…
B15072303
(捨身 Canon S110)

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2015年7月23日 (木)

説経節「をぐり」を読む(18)

B15072103

父横山殿、騒ぎを聞き付けて、
「押し入りの婿入りとは、怪しからぬ。
 武蔵相模の勢七千余騎を催して、小栗を討ち取ってしまえ」と、
息子たち五人を集め、謀議を廻らした。
嫡男の家継が諌めるには、
「小栗は尋常ならざる強者。この際、御味方につけるべきでしょう」
しかし、父横山殿大いに腹を立て、彼を退席させてしまう。
すると三男の三郎が進み出て、
「まずはご対面と、小栗を誘い出し、酒席を設け、
 なにか一芸を所望されては如何。
 例の奥州の人喰い馬、鬼鹿毛に乗らせれば、
 いつも人秣(ひとまぐさ)と心得、小栗を喰ってしまうのは必定。
 太刀も刀も要りませぬわ。父上」
「よくぞ申した三郎!」
早速、小栗が居る、いぬゐの局へ使いを立てた。
「こはめでたや」と小栗、この招きに易々と応じたのだった。
幔幕を引き上げ、意気揚々と宴席へ入る小栗、
丁重にも、左手の上座へ誘われる。
右手の下座に控える父横山殿、一献、二献と勧めるうちに、
曰くありげな目付きで切り出した。
「小栗殿、なにか都の芸一つ、ご披露頂けぬかのう…」
B15072102
(捨身 Canon S110)

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2015年7月22日 (水)

説経節「をぐり」を読む(17)

B15072101

次回探索地の選定やら、梅雨明けの暑さやらで、
「をぐり」を読み継ぐことにした。
暫時、ご容赦を…
さて、連雀商人・後藤左衛門を案内者(あないしゃ)に起てた、
小栗と屈強な十人の侍たちは、照手姫の待つ横山館を目差す。
途中、小高い尾根に立ち、遙かに横山館を指示しながら、
後藤左衛門…
「あれなる棟高き御屋形が横山殿」
「低きは五人の御子息たち」
「いぬゐ方(北西)の御主殿造りこそ、照手姫の局で御座ります」
「館の門前には、警護の番衆が控えておりますが、
 いつもの客人が判らぬかと、一喝すれば、容易く通れましょう」
「然らば、はやこれにて、お暇申しまする」
小栗、かねて用意の、砂金百両、巻き絹百疋、
奥駒(奥州の名馬)を添えて引き出物とした。
後藤左衛門の喜びようは、云うまでもなかろう。
ついでながら、彼の出番はこれで終わるが、
「をぐり」の中で、筆者が一番惹かれた登場人物であったことを、
附け加えて置こうか。
難なく、照手姫のいぬゐの局に入り込んだ小栗一行、
やがて、繰り広げられる、七日七晩の婚礼の宴々…
笛太鼓吹き囃し、その華やかさは云い尽くしようもない。
だが、これ程のどんちゃん騒ぎ、
もとより同じ館内の、父横山殿の耳に届かぬはずはなかった。
(捨身 Canon S110)

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2015年7月 5日 (日)

桐生へ(15)

B15070401

「搦め手口」の中を歩かせて頂いた。
クランク(筋替え)の部分に立つと、
あの角を曲がれば、
このまま中世世界へ入って往けるのではないかと云う、
幻想が湧いて来る。
一寸した不思議な感覚だった。
B15070402
たった2mばかりの視界を遮る石積みだけれど、
中に居ると、多少の威圧感はある。
B15070403
現代より観れば、極短くて小さな、ミニチュアのような「虎口」だ。
戦国期の男性の平均身長は、150㎝台後半だったから、
十分に効果があったのだろう。
B15070404
木橋の架かる空堀を観る。
「薬研堀」の形状がよく残っている。
向こう側の美しい竹林は、「竹ヶ岡」の字名の由来となった、
彦部家の、かけがえのない遺産である。
やはり、時を超えて、何か神聖なものを感じざるを得なかった。
さて、駆け足の探訪だったが、この稿を一先ず終えよう。
機会があれば、周辺地域を含めて、
もう一度、探索してみたい気持ちで居る。
………………………………………………………………………
次の探索地が決まるまで、暫時更新を休みます。
その間はツイッターにて、ご容赦を…
(捨身 Canon G1X)

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2015年7月 4日 (土)

桐生へ(14)

B15070301

さて、登った「櫓台」の直ぐ下が、
「彦部家屋敷」の「搦め手口」になっており、観下ろすことができる。
上掲は「穀倉」の後ろに開く木戸。
玉石を「矢筈」に組んだ石積みの高さは2m程度か。
城郭史家によると、江戸期に積み直したものだろうとのことだが、
ご当主は、天正期以前の構築を主張されている。
確かに、同時代の、関東の戦国期城郭(八王子城鉢形城
と比べ、所謂「野面積み」でないなど、違和感は否定出来まい。
だが、彦部家は、京で足利将軍家のために、金閣寺や、
銀閣寺裏の山城の普請奉行を仰せ付かった経験があるから、
高度な石積みの技術を持っていたはずと云う、
ご当主の見解も首肯出来る。
まぁ、両説とも一理ありで、痛み分けかな。
B15070302
「搦め手道」は、まず此処で、一度屈曲(クランク)して…
B15070303
さらに屈曲する。
さすがに、この辺りは観応えがある。
B15070304
そして空堀と木橋、典型的な「虎口」だ。
このように、北隅の「搦め手口」が厳重に固められたのは、
緊張する「杓子山城」に直面する方角だからであろう。
(捨身 Canon G1X)

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2015年7月 3日 (金)

桐生へ(13)

B15070201

「穀倉」の右手後方に、土塁への登り口がある。
いよいよ「彦部家屋敷」最大の観せ場である。
B15070202
「櫓台」に辿り着いた。
簡素な櫓が建っていたのだろうか。
B15070203
ちょうど角の部分が、ほぼ正確に北方を指向している。
その方向に、戦国期に桐生を治めた山城、
「杓子山城」(しゃくしやま)が「指呼の間」に認められると云う。
筆者は、よく指摘出来ないけれど、
おそらく、上掲の山々の中に、頂きが観えるのであろう。
桐生氏という一族が居たが、元亀四年(1573)に由良氏に、
入れ替わった。彦部家では、既に土着していた分家が、
一時臣属したらしいが、永禄三年に、京より下った本家は、
独立を貫き、緊張した時期もあったと考えられる。
(まさに、その為に築かれた防備と謂っていい)
彦部家の人々が、日々、この「櫓台」へ登り、
山城の動静を凝視していた様子が目に浮かぶようだ。
B15070204
現在の「櫓台」は、土塁だけでも、結構な高度感がある。
三階建ての屋上ぐらいだろうか。
櫓上であれば、六階建ての高さにはなる。
もとより眺望は、頗るよかったに違いない。
(捨身 Canon G1X)

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2015年7月 2日 (木)

桐生へ(12)

B15070101

主屋と、近代に建て増した染色作業場を後方より観る。
手前は「穀倉」だ。
B15070102
二つの美しい倉が、並んで建つ。
いずれも重文指定で、江戸後期に建てられた。
左側の「文庫倉」は、彦部家が伝える中世から近世の文書類を、
全て保管している。
B15070103
右側の「穀倉」
各地に倉々は多かれど、一つ上の品良さが漂う。
B15070104
彦部家には現在、五棟の重文指定建築がある。
主屋、長屋門、文庫倉、穀倉、
そして「冬住み」と呼ばれる隠居所だ。
中世世界の、ある分限以上の居館では、
当主の棲む主殿の他に、同じ敷地の一隅に、
先代の隠居所を設けるのが習いであった。
彦部家の場合、近世に入ってからも、
その伝統を忠実に継承していたわけだ。
江戸後期のこぢんまりとした茅葺、二室のみの別棟で、
細部に、数寄屋風の凝った設えが観られる。
現在でも、定期的に茶会が開かれて居るようだ。
(捨身 Canon G1X)

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2015年7月 1日 (水)

桐生へ(11)

B15063001

鎌倉中期以降、彦根家の人々は幕府御家人、
或いは、足利氏の近臣として、京、鎌倉と東奔西走する。
室町幕府が落ち着くと、足利将軍や関東公方の側近、
「奉公衆」を代々務めるようになる。
その間、足利氏のために討死せし一族の者、多数に及ぶ。
既述のように、戦国期、当地へ土着した後、
程なく、家康の関東入府を迎える。
彦部家は「帰農」して「郷士」となる道を選び、
江戸期を通じて、地元の村名主職を世襲した。
近代に入ると、彦部家は江戸期より培ってきた、
絹織物業を生かし、屋敷内に織物工場を営んだ。
主屋の後ろに、その頃建て増した作業場が残る。
B15063002
作業場の内部。三つ並んだ竃は染色釜である。
前掲の写真に観える、煉瓦煙突はこの為のものだ。
江戸後期、彦部家は新しい黒染技法を習得するなど、
優れた染色技術を持っていた。
現在でも、草木染の実演が行われているそうだ。
B15063003
作業場の脇に、かつて「女工さん」が使った風呂があった。
一人が薪を焚き、一度に三、四人は入ったのだろうか。
まだ微かに、あの時代の空気が漂っているような気がした。
(捨身 Canon G1X)

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