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2015年8月の記事

2015年8月31日 (月)

伊豆の国にて(16)

B15083001

「守山」(もりやま)の麓までやって来た。
ちょうど午後の暑い時間である。
この「モリヤマ」と云う名称だが、山形の荘内地方で知られる、
「モリヤマ信仰」との関連を最近気付かされた。
死者の霊は高山へ集まることになって居るが、
その途中、一時休む場所を「モリヤマ」と呼ぶのだそうだ。
だとすれば、この信仰は東北に止まらず、
伊豆を含む各地に分布していた可能性がある。
当地の「守山」は、周囲の山々から、
ポツンと独立した小丘で、結構目立つ。
古代まで遡る祭祀の庭であったかもしれず、
冬至の日没位置も気になるところだ。
B15083002
願成就院の参道を進む。
「守山」の懐に、御堂の屋根が観えてきたようだ。
しかし、暑い…
B15083003
やがて南北を貫く、中世世界の「下田街道」を跨ぐ。
上掲は北側、三嶋方向だ。
B15083004
此方は、南側の下田方向。
参道と交わる角に、江戸前期の承応四年(1655)銘を持つ、
阿弥陀三尊の種子を刻んだ板碑が立てられていた。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月30日 (日)

伊豆の国にて(15)

B15082901

韮山城南端の曲輪「塩蔵」(焔硝蔵か)跡を望む。
小田原北条氏初代の北条早雲(伊勢宗瑞)は、
明応二年(1493)の伊豆へ侵攻後も、韮山を離れることなく、
永正十六年(1519)この城で没した。
法名を「早雲寺殿天岳宗瑞」と云う。
彼は、よほど当地が気に入っていたようだ。
「天岳」(てんがく)とは、南側の尾根続きに聳える、
朝な夕なに眺めていたのであろうか。
ついでながら、「早雲」の庵号は、
箱根・湯本に設けた隠居所に因むと考えられる。
近くを流れる「早川」と「須雲川」から一字ずつ採ったと云う説も、
然もありそうで、首肯出来るのだ。
小田原北条記に拠ると、こんな面白い挿話が伝わっている。
韮山城に入った翌年の正月二日の夜、
早雲は夢を観る。
…広々とした野に、二本の大杉が生えていた。
 そこへ一匹の鼠が現れ、根元から食いちぎり、
 倒してしまう。すると鼠は、虎に変じていた…
夢から覚めた早雲は、自ら夢を判じ、
「二本の杉は、両上杉家のことだ。
 自分は子年の生まれであるから、
 やがて杉を食い倒し、滅ぼす者なのだろう。
 これは、当家が関東を平らげ、子々孫々に亘って、
 東国の主となることを示す吉夢なのだ」
その後の、小田原北条氏の興隆は謂うまでもない。
B15082902
東側の「城池」を見下す。
背後の山並みは、かなり険阻だ。
各々の尾根上には、天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めの際、
包囲軍の「付け城」(攻城陣地)が築かれたようだ。
B15082903
あらためて、これから探索に向かう、
西側の「守山」(もりやま)方向を遠望してみた。
猛暑の中、山城を下って、もう一寸歩かねばなるまい。
やれやれ…
B15082904
最後の城主、早雲から数えて四代の北条氏規は、
若き頃、今川家へ人質に出されていたが、隣りの居所に、
家康が棲み、昵懇の間であったと云う。
韮山城包囲戦の、降伏開城の仲介に立ったのも家康だった。
氏規は、他の北条家の人々よりも、諸国の情勢に明るく、
慎重で、外交感覚があったのだろうか。
大きな犠牲を出さなかったのは、優れた功績と謂っていい。
関東の内のみに逼塞し、拘りが強かった兄たちとの、
大きな違いなのかもしれない。
再び、小田原北条記に拠れば、
氏規は、秀吉に切腹を迫られた兄たち、
氏政、氏照の介錯を命じられる。
介錯を終えた後、彼も自害しようとしたが、
家康に、予め言い含められた井伊直政が、
すかさず抱き止め、制止したとされる。
家康も見込むほどの男だったと信じたい。
城内で見つけたクマゼミの死骸に、
かつて武者どもが、この城で観た夢を想う。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月29日 (土)

伊豆の国にて(14)

B15082801

本丸に着いた。
この規模の山城としては、やや小さめの曲輪だろう。
尾根の最高所に当たり、やはり土塁が廻っている。
B15082802
再び、北側の、三嶋、御殿場、箱根山方向を望む。
さすがに、申し分ない眺望だ。
韮山城は、北条早雲(伊勢宗瑞)の終の棲家となったが、
実際に攻められたのは、二度ほどだと云われる。
元亀元年(1570)武田信玄の伊豆駿河侵攻と、
謂うまでもなく、天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めである。
後者は、三月末から六月下旬までの三か月間、
籠城に耐え、最終的には降伏開城する。
その時の城主は北条氏規、
(うじのり=氏康の五男、八王子城主氏照の同母弟)
彼は主戦派でなく、宥和派だったためか、
戦後も生き残り、河内狭山藩一万石の始祖となった。
包囲戦も、八王子城ような悲劇にはならなかったようだ。
両者の運命を分けた所以については、後で触れよう。
B15082803
西側へ視線を転じると、韮山駅からやって来た県道と、
ほぼ中央に観える低い独立した小峰を「守山」(もりやま)と呼び、
麓に、これから探索する願成就院や北条氏邸跡がある。
「守山」の前を、中世の下田街道が南北に縦断し、
道に沿って、お約束通り、宿と市庭があった。
B15082804
本丸の奥は、細い尾根道が続き、「塩蔵」と伝わる、
(焔硝蔵=えんしょうぐら 火薬庫のことだろう)小曲輪へ至る。
その先の尾根は、先程歩行してきた切通し道が抜ける、
深い掘切りによって断ち切られていたわけだ。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月28日 (金)

伊豆の国にて(13)

B15082701

二の丸跡である。
下の権現曲輪との比高差は七~八mといったところか。
敷地は10×30m程度で、狭く細長い。
夏草が生い茂るが、周囲の土塁はよく残っているようだ。
まぁ、盛夏の候は、暑さ、藪、蟲と、
凡そ山城探索に相応しい季節と謂えまい。
よく云われるように、好適なのは、冬期、晩秋、早春、
せいぜい五月頃までだろう。
B15082702
木立の間から西側の眺望を確認する。
県立高校の校舎の向こうは、北方の三嶋の辺り、
雲がかかる山並みは、箱根山西麓と御殿場、
天気が良ければ、その先に富士が望めるはずだ。
やはり「勝地」の条件は整っていると謂えよう。
もとより三嶋は、古代より伊豆国の国府で、
東海道箱根越えの西側の登り口でもあり、外せない要地だ。
ひょっとしたら、三嶋大社々頭の東海道を進む、
旗指物を靡かせた大軍勢が、視認出来たかもしれぬ。
事実、そのような場面が天正十八年(1590)三月末に、
秀吉の小田原攻めとして、現出したわけだ。
B15082703
二の丸からやや登り、振り返ったところ。
右への分かれ道のように観えるのは、
上方の本丸との間に穿たれた堀切りだ。
横切る小径は「土橋」(=どばし 掘り残して造った通路)
の痕跡を僅かに残す。
B15082704
さて、本丸へ進もう。
漸く、空が開けてきた。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月27日 (木)

伊豆の国にて(12)

B15082601

韮山城の鎮守、熊野権現社だ。
明応九年(1500)銘の棟札により、勧請された年代が判り、
遅くとも、その頃までには、築城が成ったと考えられる。
北条早雲(伊勢宗瑞)は、篤く熊野を信仰していたのであろうか。
平場の奥、現在の社殿が建つ場所は一段高くなっており、
先程登ってきた小径を、真上から見下ろせるので、
櫓が設けられていた可能性がある。
B15082602
隣りの二の丸との間に残る掘り切り。
両側の斜面は土塁だ。
B15082603
木々に遮られているが、次第に西側の眺望も効いてきた。
出発地点の韮山駅方向だろうか。
もとより、山城の築城時には、樹木は全て切り払われ、
土塁や空濠などの、土の構造物が露わになっていたはずだ。
視界の確保もあるが、周囲に一目で、
城の存在を知らしめる、一種のアピールでもあったろう。
元来、中世世界で城を構えることは、
意図(領域支配の主張) 或いは決意(一揆や謀反)を、
表明する行為に他ならなかった。
中世の旅人たちは、街道上の所々に蟠踞する山城に、
常に、注意を払う必要に迫られたと想う。
各々の城下に待ち受ける、厄介な関所(関銭を取られる)を、
覚悟せねばならなかったからだ。
B15082604
二の丸へ向かう。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月26日 (水)

伊豆の国にて(11)

B15082501

三の丸と権現曲輪(ごんげんくるわ)を別つ「堀切り」に、
付けられた小径を登って往くと、
左右の斜面上に土塁が残っていることに気付く。
上掲は、北側の三の丸の土塁だ。
この向こうは、現在、テニスコートに変わっている。
B15082502
登ってきた小径を振り返ったところ。
左側が三の丸、右側が権現曲輪だ。
右上の白い建物は、権現曲輪の名称の由来となった、
熊野社である。
明応年間(1492~1501)駿東の興国寺城より、
伊豆へ侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時→伊勢宗瑞)は、
韮山城に入り、城の鎮守として、熊野権現を勧請したようだ。
B15082503
この辺りの標高は二十メートルに満たないので、
直ぐ尾根上に取り付く。
西側の県立高校の校庭が観え、校内へ降りる階段がある。
校庭付近の小字を「御座敷」と云い、
城主が日常棲んだ居館跡と考えられている。
発掘調査も行われ、二重の水濠や庭園が検出されたが、
主殿は未だ見つかってない。
B15082504
土塁の間を通って、隣の権現曲輪へ向おう。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月25日 (火)

伊豆の国にて(10)

B15082401

現在の韮山城登り口だ。
三の丸と「権現曲輪」の間の「堀切り」(上掲右手)に沿って、
小径が付けられている。
本来の大手口は、三の丸跡の先、
尾根の北端に在ったらしく、字名も残る。
B15082402
来たりし方を振り返ったところ。
「城池」の対岸、住宅が建ち並んでいる辺りを通ってきたわけだ。
背後は江川家住宅(上掲左手)から続く尾根で、
韮山城外郭の砦が、連なるように幾つも築かれたようだ。
B15082403
案内板に、江川家伝来の、
寛政五年の「韮山城古図」が掲げらていた。
現在地がよく判るだろう。
右側に「城池」とおぼしき「沼」が認められ、
山城の尾根を水濠が廻っているのが観て取れる。
外側に「田」或いは「昔ハ深田ナルベシ」と注記されており、
さらに「外堀」が広がっていた可能性が高い。
想像以上の一大要塞だったのだ。
B15082404
さて、山城へ足を踏み入れてみようか。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月24日 (月)

伊豆の国にて(9)

B15082301

一寸閑話休題…
江川家住宅を出て、もと来た道を、
途中の風情を愉しみながら、韮山城址まで戻る。
まずは、酷暑の中の白百合か。
B15082302
当地の水田にはアオサギが多い。
身体の色が濃いから、若鳥だろう。
レンズを向けると、一瞬、こちらをキッと睨んだ。
気が強そうなヤツだけれど、カメラ目線だったな。
B15082303
「城池」の堤防を横切る。
この溜池は、江川家に伝わる、寛政五年(1793)に描かれた、
「韮山城古図」では確認出来るが、戦国期の様子は不明だ。
だが、発掘調査で、山城の東西北三方(南側は尾根)を、
広大な水濠が廻っていたことが判っている。
かつては、さながら水に浮かぶような姿であったわけだ。
B15082304
五百年もの年月を、忘却させる長閑さ哉…
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月23日 (日)

伊豆の国にて(8)

B15082102

江川家住宅の北側の「裏門」だ。

ほぼ真北を向いており、門越しに富士を望めると聞く。

(もとより意図があってのことだろう。当日は雲多く観えず)

幕末の建築だが、こちらも部分的に中世の部材が、

使われているので、確認してみよう。

B15082103

両側の格子状の門扉である。

これが中世世界より、受け継がれた部材だ。

あちこちに穴が開いているのがお判りだろうか。

釘穴ではない。弾痕と矢痕だと云う。

B15082104

天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めの際に、

前哨戦で、韮山城は真っ先に攻撃された。

江川邸も激しい攻防戦の舞台となり、

その痕跡が残っているわけだ。

邸内は「江川曲輪」(えがわぐるわ)とも呼ばれ、

韮山城の外郭を構成し、江川家が屋敷を構え、

防備も担当していた。

B15082107

「曲輪」であるから、桐生の彦部家のように、

周囲は、ぐるっと土塁と空堀で囲まれていたはずだ。

現在、外塀脇に、残滓が認められる程度だが、

公開されていない南側の尾根の麓に、

確かに、空堀と土塁の遺構が残っているそうだ。

危険個所になっているらしく、立ち入れないようだ。

(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月22日 (土)

伊豆の国にて(7)

B15082105

清和源氏の一流として、平安末期に畿内より、
移住したとの、所伝を持つ江川家だけれど、
もとより、確証があるわけではない。
遅くとも、中世後期までには、
韮山で威勢を張る存在になっていたのであろう。
興味深いのは、代々熱心な日蓮宗徒であったことだ。
これも、所伝なのだが、
所謂「伊豆の法難」(弘長元年=1261)で、
伊豆へ流された日蓮を助けた支援者の中に、
江川家の人々もいた。
今も日蓮直筆と云う、題目を記した御符が、
主屋の屋根裏の棟札箱に納められている。
江川家が火難に遭っていないのは、
その霊験と、江戸期では広く信じられていたようだ。
日蓮宗との繋がりから、中世世界の江川家の、
どちらかと謂えば、武士的でなく、職人的、或いは商人的な、
性格が窺えるのではないだろうか。
そう謂えば、当家は「食」との関りが深いのだ。
主屋の土間には、幕末に当主の江川英龍が、
洋式の乾パンを試作した竃(上掲)が残っている。
B15082106
また江川家は、酒造の技術も相伝しており、
北条早雲(伊勢宗瑞)が「江川酒」(えがわざけ)と、
名付けた銘酒を小田原北条氏へ納めていた。
「江川酒」は、謙信や信長へ贈られ、
家康も贈答に使ったと云われる。
B15082101
さて、主屋を出ると、西側に米蔵(明治期)が観える。
次は、この裏の「搦め手口」だ。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月21日 (金)

伊豆の国にて(6)

B15082001

主屋の正面、式台玄関より、表門を望む。

江川邸内には「韮山代官所」も置かれていたので、

通常の土豪的な名主屋敷の様式に比べて、

武家的な性格が強いようだ。

この式台玄関も、外側に千鳥破風を備え、格式の高さが窺える。

大名の家老並みの結構と云うことで、

大河「篤姫」のロケでも使われたそうだ。

B15082002

玄関左手の「控えの間」は展示室になっている。

室内各所の柱には、手斧(ちょうな)槍鉋痕が認められた。

江川邸の主屋は、慶長期(1596~1615)の創建と考えられるが、

実際は、中世(室町後期)の用材が多用されてるのだ。

おそらく、桐生の彦部家のように、中世の武家住宅を元に、

拡張と改築を重ねた結果と想われる。

その間、火災に遭った記録が無いのも、稀有なことだろう。

B15082003

玄関右手の十八畳は「塾の間」と呼ばれ、

幕末期に、洋式砲術が講じられていた。

人気の志士(長州の久坂玄瑞や桂小五郎ら)も生徒だったと、

説明を受けるところだ。

(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月20日 (木)

伊豆の国にて(5)

B15081901

江川氏は、平安末期に韮山へ移住した、
清和源氏宇野氏流を称する伊豆の名家だ。
少なくとも、鎌倉期頃から、
当地に蟠踞した一族なのであろう。
戦国期には、小田原北条氏に仕えたことが、
明らかになっており、中近世を通じて、
ここ韮山城の膝元に、ずっと館を構えてきたようだ。
江戸期に入ると、
伊豆、駿河、甲斐、相模、武蔵(計二十万石とも)に及ぶ、
広大な幕府直轄領を治める、代官職を世襲した。
幕末期の当主、江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)は、
洋学に造詣が深く、開明派の幕臣として知られる。
B15081902
主屋の内部は史料館になっている。
中へ入ってみよう。
B15081903
まず、五十坪の広さがある土間だ。
巨大な釜戸と、幕末期の野砲のレプリカが展示されていた。
江川英龍は、西洋式砲術の専門家でもあり、
この主屋で私塾を開いて、各藩の藩士に教授したと云う。
江戸湾の台場や、韮山反射炉の建設も彼の仕事だった。
B15081904
土間には天井が無く、観上げると、
巨大な屋根の内側の、架構が露わになっている。
主な梁や柱には、手斧(ちょうな)槍鉋痕がはっきりと認められ、
想わず観惚れてしまうほどだ。
もとより、用材の手斧、槍鉋痕は、中世建築の証しで、
江川家住宅に秘められた歴史を物語っているわけだ。
(捨身 Canon EOS M)

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2015年8月19日 (水)

伊豆の国にて(4)

B15081801

韮山城の東側に広がる「城池」は、親水公園として整備されている。
北側の堤防と水門の奥に、山城への入り口が観えるのだが、
後のお愉しみに取って置くとして、
まずは、最初の探索地へ向かおう。
B15081802
この辺りは「城池」を挟んで、谷戸のような地形となっており、
さらに東側の対岸、尾根の麓に、
今回のスタート地点「江川家住宅」がある。
江戸初期の慶長年間(1596~1615)の様式を保つ、
古民家で、もとより重文指定だ。
B15081803
表門前の右手、塀に沿った広い方形状の敷地は、
「枡形」(ますがた)と呼ばれている。
名残りと想われ、かつては、土塁や濠に囲まれた、
空間だったのだろう。
そう、この「江川家住宅」は、桐生の彦部家同様、
優に中世世界へ遡れる稀有な遺構なのだ。
B15081804
表門をくぐると、巨大な入母屋造りの主屋が現れた。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月18日 (火)

伊豆の国にて(3)

B15081701

韮山城西側の麓までやって来た。
一寸床しさを感じる集落だ。
この辺りの小字を「御座敷」と云い、
城主と家臣団の居館跡と考えられている。
現在は、高校と中学の敷地が占めるが、
発掘調査も行われ、戦国期の舶載陶磁片などが出土したようだ。
B15081702
山城の在る、低い尾根の南端を、
貫くように付けられた切通し道を進む。
南側から繋がる細い尾根を断ち切った形になっているので、
「掘り切り」の痕跡だろうか。
B15081703
切通しを抜け、山城の東側に出ると、
大きな用水池が広がっていた。
「城池」(前回投稿の地図参照)と呼ぶ。
戦時は水濠の役割を果し、平時は領民の灌漑の要を満たす。
中世後期の山城跡では、観ることが多い施設である。
谷戸奥の溜池と同じ構造らしく、
湧水を堰き止めて造られたのだろう。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月17日 (月)

伊豆の国にて(2)

B15081601

今回の主な探索場所を示す(上掲)
まず、韮山駅を挟んで、東側(図右上側)の韮山城址、江川家住宅、
そして、西側(図左下側)の願成就院、北条氏邸跡、
伝堀越御所跡である。
中央やや左を上下に走る国道136号線は、
ほぼかつての「下田街道」に沿い、そのまま北上(上方)すると、
箱根を下って来た東海道と直交するわけだ。
B15081602
さて、駅を出発して、韮山城方向へ向かった。
一面の水田の中を只管歩行する。
左手に観えるビニールハウスは特産のイチゴ畑だ。
その向こうの低い尾根が、韮山城址だろう。
B15081603
ズームアップしてみた。
尾根上に平場が認められ、主郭跡のようだ。
此方からもよく観えるが、
もとより、彼方からだと、もっとよく観えるだろう。
後程登って、抜群の眺望条件を確認してみよう。
今、住宅が建って居る直下の麓には、
城主や家臣団の居館が建ち並んで居たと想われる。
手前の水田は、元は低湿地で、
城を守る水壕の役割を果していたのかもしれない。
既に、此処から望むだけで、
中世山城の理想的な形態が掴めるのが素晴らしい。
山城探索には、お薦めの城址と謂える。
B15081604
途中、水田の真ん中で、頼朝の流刑地跡と云われる、
「蛭ヶ島」(ひるがしま)の前を通った。史蹟公園になっているが、
伝承自体が江戸期を下るので、信憑性は低い。
今回の主目的より一寸外れるから、一瞥のみで過ぎる。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年8月16日 (日)

伊豆の国にて(1)

B15081502

七十年目の八月十五日。
厳しい残暑ながら、
青々とした水田を渡る風は、
既に微かな秋の匂いを運んでいた。
B15081503
想い立って、西へ向かう。
三嶋より、伊豆箱根鉄道を乗り継ぎ、韮山で降りた。
当地は、鎌倉と小田原、両北条一族の故里でもあり、
もとより、予て懸案の探索地だ。
B15081501
旅の新たな友、EOS M3を紹介しよう。
(捨身 Canon EOS M3 S110)

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2015年8月15日 (土)

説経節「をぐり」を読む(38)

B15081102

大津、関寺で、照手姫と別れた餓鬼阿弥(小栗)
その後、車を引いてくれる「檀那」(施主)が入れ替わり、
立ち代り現れて、土車は順調に引き継がれた。
逢坂山の関(上掲)を越える。
街道沿いの小屋は、一見、茶店か店棚ように観えるが、
「関屋」の可能性もある。
だとすれば、のんびりと番をする人々は「関守」であり、
旅人から「関銭」を取るのが仕事だ。
土車は「善行車」であるから、フリー(過所=かしょ)なのであろう。
B15081103
京の都に入った。
賑やかな洛中を「えいさらえい」と土車が引かれて往く。
さらに進んで、鳥羽、桂川、摂津国へ入って、
淀川河口の渡辺の津に至る。
其処より一路南下、熊野参詣道へ誘う「紀伊路」を辿るわけだ。
B15081202
天王寺、住吉大明神、そして、堺の浜(上掲)だ。
廻船や艀が多数舫い、中世後期の堺の津の繁華ぶり窺える。
紀伊国へ入れば「四十八坂」とも云って、峠坂が続く。
とうとう「こんか坂」(不詳。権現坂とも)下にて、
「車道険しきにより」引手が途切れ、土車は暫し放置されてしまう。
土壇場のピンチか。
B15081203
(捨身 Canon S110)

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2015年8月14日 (金)

説経節「をぐり」を読む(37)

B15080902

物狂いの巫女姿に扮した照手姫。
彼女の音頭取りで、小栗(餓鬼阿弥)の乗った土車は進み、
美濃国を抜け、近江へ入った。
「三国一の瀬田の唐橋」を「えいさらえい」と引き渡る。
石山寺、大津、関寺に至り、京の都は目前となったが、
はや、君の長殿との約定、最後の日でもある。
姫は夜もすがら、餓鬼阿弥の傍らで過ごし、
東の空が白む頃、胸板にこう書き加えた。
「海道七国で、車を引きたる者多かれど、
 美濃国、青墓の宿、よろず屋の君の長殿が下水仕(下女)
 常陸の小萩と云う姫、青墓の宿より、大津、関寺まで、
 車を引き参らする。
 熊野本宮湯の峰にお入りあって、病ご本復なれば、
 必ずお戻りには、一夜の宿を参らすべし。
 返す返すも、お名残り惜しゅう」
B15080903
「何の因縁でしょうか。あの小栗殿との別れも、
 この餓鬼阿弥との別れと同じように想われます。
 我が身が二つあるのなら、一つは君の長殿へ戻し、
 いま一つは、車を引き続けるものを」
幾度も餓鬼阿弥を振り返りつつ、切ない別れを告げる。
B15081101
(捨身 Canon S110) 

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2015年8月12日 (水)

説経節「をぐり」を読む(36)

B15080706

小栗を乗せた土車は「善行車」とて、想いのほか進み、
はや青墓の宿、よろず屋の君の長殿門前に着く。
だが、何の因縁か三日間、其処を動かなかった。
偶々水汲みに出た照手姫、
ついに「餓鬼阿弥」を見つける。
もとより小栗であるとは、つゆとも知らず。
下げられた胸札を御覧じて、
「小栗殿の供養に一日、十人の殿原の供養にもう一日、
 帰りに一日、都合三日の暇を頂いて、引きたやな」と、
君の長殿へ願うも、にべもない。
姫、さらに迫って、
「…旅は心、世は情け、さて海船は浦がかり=舫うもの、
 捨て子は村の育みよ…」
(中世人の物参りの心情が窺えて、一寸面白い科白だ)
「君の長殿御身上に、もしものことが起こっても、
 自ら身代わりになろうほどに」
君の長もやっと折れ、
「慈悲に情けを相添えて、五日の暇を取らす。
 五日が六日になれば、無間地獄へ堕ちようぞ。さらば車引け」
照手姫、あまりの嬉しさに、すぐ車の綱にとりつくが、
気を取り直し、烏帽子を被り、髪をさっと乱して、
小袖を引っ掛け、笹を手にした。
往き先の「町屋、宿屋(宿々)関々」で、噂に上らぬ用心に、
中世世界ではポピュラーな、狂女の姿を装ったわけだ。
「さあ、引けよ引けよ、子供ども!
 物に狂うて観せようぞ!」
人が変わったように鼓舞する姫、土車は再び動き出した。
B15080901
(捨身 Canon S110)

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2015年8月11日 (火)

説経節「をぐり」を読む(35)

B15080704

藤沢遊行寺のお上人たち「時衆」と別れた後も、
小栗を乗せた土車の道往きは続く。
往き遇うた人々が、次々と「檀那」となり、土車を引いた。
美保の松原、田子の浦、そして駿府、
大井川に小夜の中山、掛川宿、矢作宿、
三河に入って、彼の八つ橋(上掲)を、
「えいさらえい」と引き渡る。
しかし、車上の小栗は、
蘇生させられた際に、餓鬼の姿を与えられ、
剰え、「六根かたは」
(仏教で云うところの、人間の煩悩の基となる、
 目・耳・鼻・舌・身・意、六つ感覚が失われた)
の境界(きょうがい)へ墜とされたので、
自分の廻りで起きていることが一切判らない。
全ては、熊野本宮の湯の峰に辿り着ければ、
薬湯で治ると云う、閻魔大王の約定に懸っているわけだ。
B15080705
土車は熱田大明神(熱田神宮)前を過ぎた。
引手には、浄衣を着た、
「御師」と思しき神官たちも混じっている。
さあ、照手姫の居る美濃国・青墓の宿は目前である。
果して、邂逅はなるのか。
(捨身 Canon S110) 

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2015年8月 8日 (土)

説経節「をぐり」を読む(34)

B15080701

〽富士の裾野をまんあがり(=真直ぐに上る意味か)
小栗を乗せた土車は、富士を望みながら過ぎる。
をぐりの絵巻に描かれた富士は、中世世界の宗教観に基いた、
頂が三峰に分かれた姿である。
描かれた時代とそう離れておらず、興味深い。
B15080702
霞で隔てられているから、中世の東海道は、
一寸離れた海岸沿いを通っていたのだろう。
鳥居下の流れは神田川か。
藤沢・遊行寺のお上人も手を合わせ伏し拝む。
B15080703
さて、富士川を渡ったところで、
お上人たち時衆は、物言わぬ小栗に、
「さらばさらば」と別れを告げ、藤沢目指して下らるる。
これより先の道中、往き遇う人々の善意だけが頼りだ。
「えいさらえい…」
(捨身 Canon S110)
……………………………………………………………………
*あまりにも暑いので、
 暫時、断続的に夏休みを頂くかもしれません。
 その間はツィッターにて、ご容赦を…

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2015年8月 7日 (金)

説経節「をぐり」を読む(33)

B15080601

小栗を乗せた土車、
藤沢・遊行寺のお上人(白衣と笠)と従僧たち=「時衆」が、
音頭を取って、「えいさらえい」と引き出され、
はや相模川を超えた。
中世世界の東海道を辿り、酒匂、小田原の両宿を過ぎて、
いよいよ、箱根越えである。
湯本の地蔵を伏し拝み(上掲)とあるので、
B15080602
箱根の坂に差し掛かった。
もとより、今でもきつい山道。
時衆に混じって、往き合わせた旅人も、
額に汗を滲ませながら、土車を引く。
B15080603
箱根の坂を向こう側へ降ると、三島宿だ。
中世、近世を通じて、東海道は三嶋大社の社頭を通る。
小栗を乗せた土車もそうだった(上掲)
「えいさらえい!」
(捨身 Canon S110)

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2015年8月 6日 (木)

説経節「をぐり」を読む(32)

B15080405

閻魔大王が「にんは杖」で虚空をはったと打った刹那、
「上野が原」(不詳 横浜市西部か?)では、
小栗塚の土饅頭が割れ退き、
卒塔婆もかっぱと倒れて、烏が鳴き騒ぐ。
そこに、ちょうど通りかかった藤沢・遊行寺のお上人、
髪は茫々、手足は糸の如く、
腹は鞠のように膨れて、這い廻る、
餓鬼の姿に成り果てた小栗殿を見つける。
お上人、小栗の胸に下げられた札を御覧じて、
「この者を藤沢・遊行寺のお上人、めいとう聖の弟子として、
 お渡し申す。熊野本宮湯の峰へお入れくだされば、
 浄土からも、薬湯を沸き上げよう。閻魔大王より 御判」
「これは、もったいなきこと」 早速、小栗の髪を剃り、
「餓鬼阿弥陀仏=餓鬼阿弥」と名付け、出家させた。
B15080501
さらに、その胸札に、
「この者を一回引けば、千僧供養。
(千人の僧を招いて、供養するほどの功徳がある) 
 二回引けば、万僧供養」
と書き添え、土車を造らせて、餓鬼阿弥を乗せる。
B15080502
お上人は、まず自ら車の綱にすがりつき、
「えいさらえい」とお引きなった。
遙か熊野本宮湯の峰へ、道往きの始まりである。
(捨身 Canon S110)

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2015年8月 5日 (水)

説経節「をぐり」を読む(31)

B15080401

さて、舞台は一転する。
ここは何処か。
冥府、つまり、冥界に在ると云う「閻魔の庁」である。
今、閻魔大王とその眷属、牛頭馬頭、羅刹たちの御前に、
小栗と十人の殿原たちが引き出されている。
閻魔大王、御覧じて、
「あの小栗と申すは、娑婆では、大悪人の者なれば、
 阿修羅道へ落とすべし。
 十人の殿原は、主従で巻き込まれた非法の死なれば、
 娑婆へ戻して取らそう」
B15080402
すると十人の殿原たち、口々に申し上げるに、
「大王さま。小栗殿一人をお戻しあって、
 我ら十人の者ども、浄土であれ、阿修羅道であれ、
 咎に任せて、送られよ」
「さても汝らは、忠義の輩であることよ。
 十一人とも戻してやりたいが、十人は既に火葬となって、
 体無ければ、詮もなし。
 この儘、冥府に留まって、我らに仕えてもらおうか。
 さあらば小栗一人を戻せ」
閻魔大王の沙汰が決まった。
B15080403
但し、条件が付く。
藤沢・遊行寺のお上人「めいとう聖」宛ての言伝を、
大王自ら、胸札に記したのだ。
気になるその内容については、後ほど触れよう。
B15080404
「にんは杖」と云う杖で、閻魔大王が、はったと虚空を打つと、
小栗は一足飛びに、再び娑婆の世界へ…
(捨身 Canon S110)

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2015年8月 4日 (火)

説経節「をぐり」を読む(30)

B15080301

さて、青墓宿の君の長と云えば、
百人の「流れの姫」(遊女)を抱えるほどの、
「有徳人」(うとくにん)だった。
照手姫を篤と御覧じて、
「さあ、百人の流れに匹敵するくらいの姫を手に入れたぞ。
 これで、一生安楽に暮らせるわい」
「ところで姫よ、この内では国の名で呼ぶ習わしになって居る。
 生国は何処かの」
姫、涙ぐみながら、小栗の里を偲ぶ縁とばかりに、
「常陸の者です」と答える。
「今日から、常陸の小萩と名付けよう。
 明日より、関東鎌倉への上り下りの衆の袖を引き留め、
 御茶代を頂き、御慰めするのだ。十二単も参らす」
もとより、姫は即座に拒絶。君も長は、さらに厳しく詰め寄って、
「明日にでも、蝦夷、佐渡、松前へ売り飛ばし、
 足の筋をば断ち切り、一日一合の食事で、
 昼は粟啄む鳥を追い、晩には鮫の餌となるか。
 それとも、十二単に身を飾り、流れ(遊女)に立つか。
 遠慮無う選べや、常陸の小萩殿よ」
「たとえ、如何ようになっても、流れに立つことはありませぬ」
「憎き申し様だ。ならば下女十六人分の下働きをさせようか」
かくて姫は、百人の遊女(宿に着く)百頭の馬、百人の馬子の、
世話を、たった一人で背負わされてしまう。
B15080302
だが、何と云っても、彼女は「照る月日」の申し子、
千手観音が影のように寄り添い、守護されるから、
下女十六人分の仕事よりも、素早いという有様である。
しかも、絶えず念仏を唱えながら働くので、
「念仏小萩」と呼ばれるようにもなって、
いつしか三年が経った。
B15080303
(捨身 Canon S110) 

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2015年8月 3日 (月)

説経節「をぐり」を読む(29)

B15080201

六浦津の商人に買い取らてしまった照手姫、
商人は手元に止めては置かなかった。
また売り飛ばしたのだ。
こうして、姫の流転が始まる。
「釣竿の島」(不詳)「鬼のしほや」(新潟県岩船郡神林村塩谷か?)
値が上ればさらに転売を重ね、いつのまにか日本海側へ。
「岩瀬」「水橋」「六動寺」「ひひ=氷見か」(いずれも富山湾沿岸)
B15080202
もとより、多くは海路を辿る。
「宮の腰」(金沢市金石)「本折」「小松」(いずれも石川県小松市)
「三国湊」「敦賀津」(いずれも福井県)「海津の浦」(滋賀県高島郡)
B15080203
「大津」に至った。
これからは、陸路か。
牛の背に揺られ、姫は「宿」を通り過ぎる。
これほどの移動は、現代では意外と想われるかもしれないが、
中世世界では、むしろ普通であったろう。
人買い商人の活動は各地を網羅し、
市場は連携していたと観るべきだ。
B15080204
姫の「値」も、さらに上がって往く。
十三貫文(百三十~九十万円)と云う値で、
(上掲=商人が、ずっしりとしたさし銭の束を手にしている)
遊女屋の主人「よろず屋の君の長殿」が買い取った。
(捨身 Canon S110)

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2015年8月 2日 (日)

説経節「をぐり」を読む(28)

B15073003

釣りから戻った漁父の大夫、

「姫は如何した。姫は…」と捜すのだが、姿が観えない。

「さあ、あなた様の後を追って、出て往きましたよ。

 若い人のこと、海へ身を投げたのやら、

 六浦の商人が船に乗せて往ったのやら、

 この姥も心配なのですよ」と姥が涙ぐむ。

実は、燻し攻めが、上手くいかなかった腹いせに、

六浦津の商人へ、銭二貫文で売り飛ばしてしまったのだ。

ところで、銭二貫文とは、現在ではいくらになるのだろうか。

中世世界の貨幣価値を換算するのは、かなり難しいが、

仮に銭一文が\100前後とすれば、100文(実際は銭97枚)で、

「さし銭」(紐を通し一括りにする)にして、約\10000。

それを十さし繋げて、銭千枚(970枚)が一貫文だ。

多少の物価変動も考慮に入れると、

一貫文は十万~十五万円ぐらいになるか。

絵巻の場面(上掲)では、姥が一貫文を手に握り、

もう一貫文を肩に掛けているのが判る。結構な重さであろう。

照手姫は、二十~三十万円で、売り渡されたわけだ。

人身売買が横行した中世世界の相場としては、

然も有りなんと云う値段だったのだったのか。

尤もらしく取り繕った姥であったが、大夫は騙されなかった。

「姫を売り飛ばして、やすやすと銭二貫文せしめ、

 うわべだけの空涙を見せたのだろう。

 どうして、それがしの目が節穴であるものか。

 家財産全て遣わすから、離縁いたす」

この後、大夫は、髻切って西へ投げ、

(専ら西方浄土を目指す意味か)

墨染の衣を纏い、鉦鼓を首に掛けて、

鉦叩き、或いは時衆の出立ちか

山間へ閉居、日々念仏申して過ごしたと云うことだ。

B15073004

(捨身 Canon S110)

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2015年8月 1日 (土)

説経節「をぐり」を読む(27)

B15073002

漁父の大夫、姥の酷い言い草に呆れ果て、
「御身のような、邪見な姥と連れ合って、
 共に魔道へ堕ちるより、
 家財産は全て進ぜる程に、離縁いたそう。
 それがしは、姫と一緒に、
 諸国修行へ旅立つとことにする」と切り出した。
姥、ここで大夫に去られてはまずいと、
「今のは冗談ですよ。お互い子も無いことだし、
 姫を末々の養子に頼み参らせよう。
 お戻りあれ。大夫殿」
大夫は善き人だったから、この一言で気を取り直し、
沖へ釣りに出かけてしまった。
さてこそ、留守の間に、姥が企む「謀反」の恐ろしさよ。
「男と云うものは、色の黒い女は嫌いだそうだ。
 姫を塩焼き小屋の煙出しへ追い上げ、
 松の生木を焚いて燻し、色黒うしてしまえば、
 大夫殿も嫌になるだろう」と燻し攻めにかかった。
激しい煙が姫の目口に入る様は、例えようもない。
しかし、抑々照手姫は「照る月日」の申し子なのである。
千手観音が現じ給い、影の如く寄り添って守護するので、
ちっとも煙くなく、夕方になっても、
恰も白き花に薄墨を差したようにて、
一層美しさが際立つのだった。
姥はますます腹を立て、遂に禁じ手に出る。
ついでながら、もうお判りだろうが、
大夫殿、実は照手姫に「ほ」の字なのだ。
流石に姥の目は誤魔化せない。
中世世界であっても、初老男の哀愁は変わらないわけだ。
(捨身 Canon S110)

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