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2015年9月23日 (水)

鎌倉 二つの谷戸へ(4)

B15092201

六浦道の「関取場跡」から岐れる路地を進む。
この「辻」を、吾妻鏡では「大倉辻」(おおくらのつじ)と呼んでおり、
大町と並んで、町屋の設置が許された繁華な場所だった。
鎌倉初期、頼朝の御所をはじめ、主な御家人の館は、
鶴岡八幡宮寺の東側、六浦道に沿った「大倉」の辺りに、
集まっていたようだ。外部とのアクセスがよくなかった当時は、
六浦の津へ通じる道が、極めて重視されていたのだ。
B15092202
鎌倉らしい、閑静な住宅地が続く、気持ちのいい小径だが、
今の幅員は、乗用車がやっと一台通れる程度だ。
だが、再び吾妻鏡の、寛喜三年(1231)正月十四日の条、
及び、建長三年(1251)十月七日の条の、火災の記事に拠れば、
「二階堂大路」と呼ばれていたことが判る。
中世世界の鎌倉府内の「大路」の道幅は20mを超えていた。
さらに謂えば、平安京の「大路」の基準が、延喜式によって、
少なくとも、八丈=24m(一丈=約3m)以上と定められたから、
その前例に、ほぼ従ったと考えていいかもしれぬ。
B15092203
あらゆる事で、平安京との観立てが行われていた鎌倉である。
大いにあり得ることだと想う。
因みに、京都の発掘調査では、平安期の大路の道幅は、
中世を通じて忠実に守られ、現在のように狭められたのは、
江戸期に入って後と判明している。
(捨身 Canon EOS M3)

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