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2015年9月25日 (金)

鎌倉 二つの谷戸へ(6)

B15092401

今回目指す、最初の谷戸に「永福寺跡」がある。
谷戸の名称は判らぬが、字名は「二階堂」と云う。
寺域の中心部分は、発掘調査が行われ、
現在、史蹟公園として整備中のようだ。
B15092402
文治五年(1189)の奥州平泉攻めは、
義経追捕のためとは云うものの、本質は、一方的な言い掛かり、
或いは、源家累代の遺恨に基いた、頼朝の私戦であった。
後白河院の追討宣旨も、事後的に得たに過ぎない。
逃亡した敵将の藤原泰衡は、無実を訴え、赦免を請うが、
許されず、結局裏切りに遭い憤死する。
頼朝は彼の首を、嚢祖頼義が前九年合戦の際に、
阿倍貞任を首を晒した前例に倣い、眉間に八寸釘を刺して掛け、
晒したのである。以上は、吾妻鏡に記すところだが、
中尊寺金色堂で、秀衡棺の傍らから見つかった首桶に、
該当する首級があり、泰衡のものと確認されている。
同時に、吾妻鏡の史料としての信用度も高まったわけだ。
B15092403
後味の悪い戦さだったと想う。
戦後、頼朝はじめ、従軍した御家人たち、鎌倉の人々も、
泰衡ら、不運の義経も含めて、
幾万の怨霊を畏れずには居られなかったはずだ。
B15092404
「永福寺」は、そのために建てられた。
頼朝たちが、未だ余燼収まらぬ平泉の中で、
度肝を抜かれ、仰ぎ観た、中尊寺二階大堂・大長寿院、
毛越寺、無量光院がモデルとなったのは、
自然な成り行きだったろう。
(捨身 Canon EOS M3)

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