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2015年9月の記事

2015年9月30日 (水)

鎌倉 二つの谷戸へ(11)

B15092901

この秋の長雨で、谷戸内の湿気は十分になっている。
木々の生気も漲った感じなので、紅葉も期待出来そうだ。
瑞泉寺の林間に、ぽつんと立つ三重の層塔。
B15092902
十二月初旬には、境内は燃えるようになるのだろうか。
B15092903
さて、谷戸を出て、
再び、六浦道の「大倉の辻」に戻ってきた。
「筋替え」を抜けたところが「大御堂橋」信号だ。
B15092904
信号のところを右手へ入り、
「滑川」に架かる「大御堂橋」を渡る。
頼朝が建てた、もう一つの巨大寺院「勝長寿院」(大御堂)
が在った谷戸へ向おう。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月29日 (火)

鎌倉 二つの谷戸へ(10)

B15092801

鎌倉で、最も谷戸の奥まったところに在る禅寺が、瑞泉寺だ。

堂舎や境内は、こぢんまりとして、実に目立たないが、

「鎌倉らしい寺」として惹かれる人が多いと聞く。

筆者の父親もそうだったな。

鎌倉末期に、この辺りの谷戸に館を構えた、

幕府吏僚の二階堂氏が、夢窓疎石を招いて開いた。

その後、鎌倉公方足利氏の菩提寺となる。

やはり、見所は夢窓疎石が作った庭であろう。

B15092802

仏殿裏、谷戸の崖下に広がる庭園は、かつては土砂に埋もれ、

発掘調査で甦ったものだが、鎌倉で現存する唯一の、

由緒正しき、中世世界の庭園である。

池、中之島、岩窟は、自然の砂岩(鎌倉石)を掘り込んで、

造られている。

伊豆韮山、守山の「円成寺跡」で出土した庭園も、

ほぼ同時代のもので、酷似しているそうだ。

「円成尼」は夢窓疎石に親しく師事していたと云う。

彼女も当寺を訪れ、この庭を観たのかもしれぬ。

B15092803

典型的な谷戸奥の寺を呈して居るのが、よく判る。

B15092804

背後の崖は、人工的に切り落とした「切り岸」になっている。

橋を渡って、山頂へ登れば、夢窓疎石が建立した、

富士を望む「偏界一覧亭跡」に至るらしいが、現状は非公開だ。

(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月28日 (月)

鎌倉 二つの谷戸へ(9)

B15092701

瑞泉寺へ続く参道を詰めて往く。
鎌倉では、最も山寺の雰囲気を保って居る寺だろう。
まず、杉の古木に迎えてくれる。
B15092702
竹林も現れた。
B15092703
来たりし方を振り返りながら、彼岸花一輪…
B15092704
暫し谷戸奥のプロムナードを愉しむと、
ちょうど、心の準備が出来上がって、
山門に辿り着くわけだ。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月27日 (日)

鎌倉 二つの谷戸へ(8)

B15092601

永福寺跡前の岐路、二階堂川に架かる橋を「通玄橋」と云う。
そのたもとに、近代のものだろうが、道標が立つ。
正面「通玄橋」
左面「左 横浜及本郷道」
右面「右 紅葉谿瑞泉寺道」(もみじがやつ ずいせんじみち)
と読めた。
左手の道は、既述の如く、中世世界の「二階堂大路」であり、
南関東を北上して「奥大道」へ接続するから、
往き先としては、ほぼ正しい。
右手の道は「瑞泉寺」に至る参道で、
「紅葉谿」(=紅葉ヶ谷)とは、この辺りの谷戸名だ。
ついでながら「~みち」と云うのは、
近世後期の寺社参詣ブーム以降に、定着した呼び方だろう。
B15092602
暫く谷戸奥を詰めて往くと「荏柄天神社御旅所」があった。
神輿が此処まで来るらしい。
B15092603
寺門が観えてくる。
「錦屏山・瑞泉寺」
「紅葉ヶ谷」に因むわけか。
B15092604
鬱蒼とした林間へ入り込んだ。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月26日 (土)

鎌倉 二つの谷戸へ(7)

B15092501

「永福寺跡」からは、本堂の「二階堂」と、
左右の回廊で結ばれた、阿弥陀堂と薬師堂、
さらに池中に迫り出した両翼楼が発掘された。
広い苑池は、中之島と州浜、庭石を配し、
浄土式庭園を形成していた。
もとより、現在の池は、復元造成したものだ。
東側正面の山上(上掲)では、13世紀初頭の経塚遺跡も、
発見されている。
一寸目立つ山容なので、聖地として選ばれたのであろう。
ひょっとしたら、冬至の日出方向とも関るかもしれない。
頂上の、真東より上った朝日は、
朱塗り金色の「二階堂」を照り輝かしたのだろうか。
B15092502
「永福寺跡」の東側の山裾を「二階堂大路」が走っている。
この先、道は谷戸内に設けられた「釘貫役所」(=木戸)
を抜けて、山中へ入って往く。
その後、武蔵国六浦荘を経て、南関東を北上し、
最終的には「奥大道」(奥州道)と接続するわけだ。
B15092503
道脇を流れる「二階堂川」の水音が聞こえてくる。
谷戸奥の湧水を源にするのだろうが、水量は豊かだ。
B15092504
「永福寺跡」前の岐路に戻ってきた。
左は「二階堂大路」右が「瑞泉寺」へ至る道だ。
ついでながら、その寺は未だ往ったことがない。
右の道を辿ってみようか。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月25日 (金)

鎌倉 二つの谷戸へ(6)

B15092401

今回目指す、最初の谷戸に「永福寺跡」がある。
谷戸の名称は判らぬが、字名は「二階堂」と云う。
寺域の中心部分は、発掘調査が行われ、
現在、史蹟公園として整備中のようだ。
B15092402
文治五年(1189)の奥州平泉攻めは、
義経追捕のためとは云うものの、本質は、一方的な言い掛かり、
或いは、源家累代の遺恨に基いた、頼朝の私戦であった。
後白河院の追討宣旨も、事後的に得たに過ぎない。
逃亡した敵将の藤原泰衡は、無実を訴え、赦免を請うが、
許されず、結局裏切りに遭い憤死する。
頼朝は彼の首を、嚢祖頼義が前九年合戦の際に、
阿倍貞任を首を晒した前例に倣い、眉間に八寸釘を刺して掛け、
晒したのである。以上は、吾妻鏡に記すところだが、
中尊寺金色堂で、秀衡棺の傍らから見つかった首桶に、
該当する首級があり、泰衡のものと確認されている。
同時に、吾妻鏡の史料としての信用度も高まったわけだ。
B15092403
後味の悪い戦さだったと想う。
戦後、頼朝はじめ、従軍した御家人たち、鎌倉の人々も、
泰衡ら、不運の義経も含めて、
幾万の怨霊を畏れずには居られなかったはずだ。
B15092404
「永福寺」は、そのために建てられた。
頼朝たちが、未だ余燼収まらぬ平泉の中で、
度肝を抜かれ、仰ぎ観た、中尊寺二階大堂・大長寿院、
毛越寺、無量光院がモデルとなったのは、
自然な成り行きだったろう。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月24日 (木)

鎌倉 二つの谷戸へ(5)

B15092301

かつての「二階堂大路」を辿る。
やがて、傍らをせせらぎが流れるが、
これも二階堂川と呼ぶらしい。
B15092302
吾妻鏡に記される如く「二階堂大路」の両側は、
ぎっしりと「町屋」が建ち並んでおり、
頼朝の御所に最寄りのため、有力武士たちも集住した。
道の右側(東側)杉本寺(大倉観音堂)との間には、
北条義時の「大倉亭」が在ったようだ。
B15092303
テニスコート脇を進む。
有名な、吾妻鏡、文治五年(1189)七月十七日の条に、
頼朝の奥州平泉攻めの侵攻ルートが挙げられている。
三手に分けられたが、頼朝が率いた本隊が通ったのが、
この「二階堂大路」だったと云われる。
「大手」とも記されるから、「奥大道」(奥州道)に、
接続する主要な経路だった可能性もあろう。
ついでながら、文献上「下道」(下の道)「中路」(中の道)の、
呼称が見出せる唯一の例としても知られ、
世上、所謂「鎌倉道」を指すとされることが多いが、
もとより、両者をイコールで繋げる論拠は無い。
筆者は最近、中世世界には「鎌倉道」なるものは、
存在しなかったのではないかと、考えるようになったので、
ことさら触れたわけだ。
まぁ、追々解き明かして往こうと想う。
B15092304
さて、公園めいた平場へ出た。
「永福寺跡」(ようふくじ)だ。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月23日 (水)

鎌倉 二つの谷戸へ(4)

B15092201

六浦道の「関取場跡」から岐れる路地を進む。
この「辻」を、吾妻鏡では「大倉辻」(おおくらのつじ)と呼んでおり、
大町と並んで、町屋の設置が許された繁華な場所だった。
鎌倉初期、頼朝の御所をはじめ、主な御家人の館は、
鶴岡八幡宮寺の東側、六浦道に沿った「大倉」の辺りに、
集まっていたようだ。外部とのアクセスがよくなかった当時は、
六浦の津へ通じる道が、極めて重視されていたのだ。
B15092202
鎌倉らしい、閑静な住宅地が続く、気持ちのいい小径だが、
今の幅員は、乗用車がやっと一台通れる程度だ。
だが、再び吾妻鏡の、寛喜三年(1231)正月十四日の条、
及び、建長三年(1251)十月七日の条の、火災の記事に拠れば、
「二階堂大路」と呼ばれていたことが判る。
中世世界の鎌倉府内の「大路」の道幅は20mを超えていた。
さらに謂えば、平安京の「大路」の基準が、延喜式によって、
少なくとも、八丈=24m(一丈=約3m)以上と定められたから、
その前例に、ほぼ従ったと考えていいかもしれぬ。
B15092203
あらゆる事で、平安京との観立てが行われていた鎌倉である。
大いにあり得ることだと想う。
因みに、京都の発掘調査では、平安期の大路の道幅は、
中世を通じて忠実に守られ、現在のように狭められたのは、
江戸期に入って後と判明している。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月22日 (火)

鎌倉 二つの谷戸へ(3)

B15092101

「岐れ路」の信号を過ぎると、小さな橋を渡る。
「関所橋」と呼ぶ。戦国期、鎌倉を領した小田原北条氏が、
この辺りに関所を設けた名残りである。
荏柄天神社の修繕維持に充てるため、
旅人から「関銭」を徴収していたのだ。
当時の鎌倉府内では、六浦津へ至る道が、
最も往来が多かったのであろう。
「筋替え」の痕跡も、関所に伴うものと考えてよい。
B15092102
暫く進むと「関取場跡」(関所跡)を示す、案内板が現れる。
B15092103
その裏手に、江戸期の庚申塔が隠れていた。
「青面金剛」(しょうめんこんごう)の文字を刻む。
つまり此処は、かつて「辻」であった可能性が高いわけだ。
B15092104
カメラを引いてみる。
細くて、極めて目立たない路地だが、
それらしい「岐れ路」が続いているではないか。
この道を辿ることにしよう。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月21日 (月)

鎌倉 二つの谷戸へ(2)

B15092001

朝比奈峠を探索している。西側は杉本寺までだったが、
今回は,、その一寸手前の二つの谷戸に絞った。
まず、上図中央やや下「永福寺跡」(二階堂)
そして、六浦道を挟んで南側、下図左上の「勝長寿院跡」だ。
B15092002
もとより両寺とも、頼朝が建立した、中世世界の鎌倉を代表する、
巨大寺院である。詳細は後ほど触れるとして、
この八月に探索した、伊豆韮山・守山の北条時政が建てた、
「願成就院」のモデルになったと考えていい。
B15092003
さて、出発点を六浦道の「岐れ路」(わかれみち)の表示がある、
信号付近と決める。左手へ入る道(上掲)が観えるが、
荏柄天神社と覚園寺、鎌倉宮へ至る参道で、
これを指すわけではないようだ。
B15092004
観落としてしまそうだが、六浦道は、信号の一寸先で、
僅かにクランク、否「筋替え」の痕跡を残す。
本当の「岐れ路」を捜す、重要なヒントになるはずだ。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月20日 (日)

鎌倉 二つの谷戸へ(1)

B15091901

四月下旬に化粧坂を探索して以来、再び鎌倉に戻ってきた。
半年も経っていないが、風景は一変している。
まず、段葛が工事中なのだ。
B15091902
通りの彼方此方で、建て替えにともなう発掘調査も。
もとより鎌倉では、全てが土の中だ。
B15091903
鶴岡八幡宮社頭を右手に折れ、六浦道へ。
路地裏に楠の古木が二本、社域の南東の隅を護る小祠か。
ちょうど対角線上の北西の隅(本殿西側脇)にも、
丸山稲荷社が鎮座するから、対応する守り神だろう。
おそらく、八幡宮寺の「四至」全てに在ったと想う。
B15091904
彼岸花の出迎えを受けながら、歩を進めるとしよう。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月 7日 (月)

伊豆の国にて(23)

B15090504

元弘三年(1333)鎌倉北条氏は滅亡する。
一族の殆どの人々が、自害か討死を遂げる中、
残された寡婦や年少の子女たちは、
第十四代執権貞時の妻で、第十五代執権高時の母であった、
「円成尼」に率いられて、鎌倉を落ち、
一族の故郷、伊豆韮山に尼寺を建立、安住の地を求めた。
北条氏館跡から、重なるように、
その尼寺の遺跡が発見されている。
「円成寺」と云う。
後醍醐天皇や足利尊氏、直義兄弟は、
彼女たちに幾ばくかの、所領を安堵し、
北条氏の菩提を弔いながら、余生を送ることを許した。
尊氏は、妻の登子が北条一族の出身だったこともあり、
とりわけ懇ろに扶助したと想う。
だが、滅ぼした側にとっては、もっと懸念すべきことがあった。
怨霊のことである。
中世世界では、滅亡した氏族の舘跡に寺を建て、
直系の子孫に供養させることが、
理想的な怨霊封じの仕方なのであった。
B15090505
「円成尼」が死去(貞和五年=1345)すると、
尼寺は一時的に衰えるが、伊豆国守護、山内上杉氏によって、
再興され、上杉氏の女性たちが住持を務めたようだ。
最終的に廃絶したのは、戦国期に入ってからだろう。
B15090506
さて、四時間に満たない滞在だったが、
今回の伊豆の国、韮山の探索を終える。
新たな旅の友、EOS M3の使い心地はまぁまぁだった。
もとより、カメラは目立たないほうがいい。
………………………………………………………………………
*暫時休息を頂きます。ご容赦を…
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月 6日 (日)

伊豆の国にて(22)

B15090501

鎌倉北条氏の館が在った谷戸(谷戸と呼びたい!)は、
整備中のため、現在立ち入れないようだ。
右横に「守山」の頂上へ登る道があり、
道脇から、谷戸奥(上掲)を撮ってみた。
やはり段状になっており、鎌倉の谷戸に酷似している。
彼らは、似たような地形を好んだのだろうか。
韮山のこの辺りは「北条」と呼ばれる郷だった。
その地名を名字にするわけだから、本貫地=故郷なのである。
しかし、出自については、確かな史料が無く、実は不明なのだ。
幾つか伝わる系図に拠れば、坂東平氏の一流を称する。
実際、平姓を名乗っているので、何らかの関係はあると想うが、
辿れるのは、時政の二代前までと云う。
伊豆国府、三嶋の最寄りに棲んだので、
在庁官人の一人だろうという説もある。
いずれにしても「北条」は広い領地ではなく、
三浦、千葉、横山のような、坂東の大武士団とは程遠い、
極めて地味な、弱小武士団だったのは、間違いない。
発掘調査では、12世紀中頃より、館が構えられ、
数回の建て替えと、拡張を経て、
12世紀末~13世紀初頭に最盛期を迎え、
13世紀末には、衰退廃絶したのが判っている。
その間、本拠地が鎌倉へ移ったが、
一族の人々は、滅亡の時まで
本貫のこの地を、決して忘れることはなかった。
後ほど、後日譚にも触れよう。
B15090502
「守山」頂上へ続く道だ。
時間が無くて登らなかったが、気配だけは感じられた。
「モリヤマ信仰」の祖霊祭祀の庭を、
何故わざわざ、一族の本拠地に選んだのか。
単なる偶然の一致とは考えられず、
何か両者を繋ぐものがあったのかもしれない。
B15090503
今も、何事かを秘める北条氏館跡。
前述の如く、彼らが、この谷戸に館を構えたのは、
ほぼ時政か、せいぜい一、二代前の時代とみていい。
だとすれば、彼らは一体、
何処からやって来たのだろうか?
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月 5日 (土)

伊豆の国にて(21)

B15090401

「堀越公方御所跡」を過ぎ、「守山」の北端を廻って、
西側へ出ると、眼前を「狩野川」(かのがわ)が流れる。
天城山中に源を発し、伊豆半島を北上しながら、
沼津付近で駿河湾へそそぐ、一級河川だ。
古来、暴れ川として知られ、流路を頻繁に変えたようだ。
韮山から、河口までは僅か十六キロ、
近くに「河岸」(川湊)と云う字名も残っていて、
往時は水運が盛んであったことが窺える。
鎌倉北条氏が館を構えるにあたって、東側の下田街道、
宿と市庭、そして「狩野川」の水運は、外せない条件だったろう。
B15090402
「守山」側を振り返ると、まず榎の巨木が視界に入って来る。
大きく傾いて生える姿は、かつての水害の痕跡だろうか。
一方で「狩野川」を往き来する船の目印のために、
中世人が植えた可能性も捨てきれない。
B15090403
「守山」は、この辺りから大きく切れ込み、
恰も谷戸のような地形を呈する。
其処が、鎌倉北条氏の館跡である。
あの榎の巨木は、館の入り口を示す門標のようでもあり、
「守山」や、北条一族の秘密を観ていたのかもしれぬ。
彼の昔語りを聞きたや…なんて想ってみたりした。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月 4日 (金)

伊豆の国にて(20)

B15090301

「守山」の麓には、中世遺跡が集中している。
まず、願成就院を観たが、北上して左回りに探索してみよう。
次は「堀越公方御所跡」である。
享徳の乱(1455)で鎌倉を落去して、
古河へ移った足利成氏(古河公方)は、
京都の将軍と対立する。
対抗上、送り込まれた、関東公方候補が、
時の将軍義政の異母兄、足利政知だった。
しかし、彼は成氏側に阻まれて、鎌倉に入れず、
伊豆に留まり、当地に御所を構えた。
これを「堀越公方」と呼ぶ。
跡地には「御所之内」と云う、字名が残っており、
発掘調査も行われ、ほぼ確認されているようだ。
現在、敷地は埋め戻され、
史蹟として、整備を待っている状況らしい。
B15090302
気持ちのいい草原になっているが、
此処に、洛中洛外図屏風に描かれたような、
足利家の「御所」が建っていたのだ。
B15090303
対照的に「守山」側を振り返ると、荒れ果てた光景が広がる。
段状の地形が認められるから、
此方にも、何らかの建造物が在ったのだろう。
明応三年(1493)北条早雲(伊勢新九郎盛時=宗瑞)の、
伊豆侵攻に遭い、「堀越御所」は滅亡する。
小田原北条記に拠れば、焼き討ちを受けたとされるが、
焼土や焼けた陶片が出土しているので、
文献とも一致するわけだ。
B15090304
「堀越御所跡」の近くには、
「北条政子産湯の井戸」と云うのも残る。
そう、一方で「守山」は鎌倉北条氏の故郷でもあった。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月 3日 (木)

伊豆の国にて(19)

B15090201

願成就院を出て、「守山」の麓を廻ってみよう。
まず、山門左手の駐車場に創建時の願成就院跡の石碑が立つ。
中世世界の寺域は、現在と比較にならぬほど広大だった。
大正期までは、浄土式苑池と中之島が残っていたらしく、
大部分が埋め立てられ、農地と宅地になってしまったようだ。
B15090202
山門の右手裏には「守山八幡社」がある。
社伝に拠れば、少なくとも平安末期へ遡り、
大山祇神と宇佐八幡神が祀られたのが始まりだ。
頼朝も、挙兵の際に戦勝祈願をしたと云う。
観えているのは舞殿で、本殿は背後の長大な石段を登った、
「守山」の中腹に鎮座するのだそうだ。
先を急ぐのでパスしたが、
もとより「モリヤマ信仰」との関りも、浅かろうはずがなく、
古代から続く、祭祀の庭の可能性が高いと考えられる。
B15090203
「守山」の麓で見つけた、名も無き小社。
どんな由緒を秘めているのだろうか。
B15090204
ふと「守山」の上を観上げると、
いつの間にか、白雲が一つ、ポツンと架かっている。
やはり、死者の霊が留まると云う「モリヤマ」に相応しい。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月 2日 (水)

伊豆の国にて(18)

B15090101

願成就院は、鎌倉北条氏の氏寺という位置付けだが、
戦国期に焼亡後、江戸の宝暦年間(1751~64)に、
再建したのは、小田原北条氏のほうで、
韮山城主・北条氏規の子孫、河内狭山藩主氏貞だった。
もとより、両北条氏は、系統的に全く関係がない。
元来は伊勢氏であった小田原北条氏は、
彼らが関東に覇を唱えるに際して、鎌倉北条氏の跡を慕い、
自らを準える、或いは観立てることで「北条」を名乗った。
何代も後の子孫が、この故事をリスペクトし、
忠実に踏襲していたことが窺えて、興味深い。
B15090102
江戸期に再建された現在の本堂だ。
「大御堂」は、昭和三十年代に建立されたが、
名称自体は、創建時の壮麗な「大御堂」
 (おおみどう=宇治の平等院や、平泉の毛超寺、
  無量光院、鎌倉の永福寺=二階堂のように、
  左右に「翼廊」を擁した)から、受け継いだものだろう。
B15090103
おっと、本日お盆で拝観は休みらしい。
如何しようかと想っていたら、
何故か突如、イギリス人の青年が現れて、
ボランティアで「堂守り」をしており、
遠方からの拝観者のために「大御堂」を開けてくれると言う。
お蔭で、国宝の運慶仏を恙無く観ることが出来た。
まさに僥倖である。
B15090104
「大御堂」前より、韮山城の在る東方を望む。
あの低い尾根が、ほぼ正面に観えた。
山城との位置関係も真西にあたり、理想的なわけだ。
(捨身 Canon EOS M3)

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2015年9月 1日 (火)

伊豆の国にて(17)

B15083101

願成就院前に着いた。
吾妻鏡、文治五年(1189)六月六日の条に拠れば、
北条時政が、頼朝の奥州攻めにあたって、
戦勝祈願のために建立したことになっている。
(ついでながら、戦国期の小田原北条氏と区別の必要上、
 以下、鎌倉北条氏と呼ぶことにする)
創建時には、鎌倉北条氏、時政、義時、泰時の三代に亘って、
広大な浄土式苑池を擁する大伽藍が整備され、
一族の氏寺として、威容を誇っていたようだ。
最近、この寺が注目を集めているのは、
伝来する、阿弥陀如来坐像、不動明王像、
衿羯羅童子(こんがら)像、制叱迦童子(せいたか)像、
毘沙門天像が、運慶の数少ない真作と認められ、
一昨年、異例の一括で、国宝指定されたことだろう。
その際、筆者も、東博で毘沙門天像を観たが、
全像が揃っているところは未だなのだ。
B15083102
正面が運慶の国宝仏を安置した「大御堂」だ。
鎌倉期の伽藍は、平泉の毛越寺(もうつうじ)や、
鎌倉の永福寺(ようふくじ)を模した壮麗なものだったが、
戦国期の、早雲の伊豆侵攻や、秀吉の小田原攻めで、
全て焼亡してしまう。
B15083103
境内の左手に、北条時政の墓所と云うのがある。
B15083104
墓域は綺麗に手入れされていた。
真新しい石塔ばかりで、古いのは、
中央の宝篋印塔モドキの層塔だろうが、
笠の数が奇数でないなど、疑わしい点が多い。
中世へ遡るかもしれないが、オリジナルと謂えず、
もとより、当時(鎌倉初期)のものではないだろう。
(捨身 Canon EOS M3)

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